2022.4.29(金)
こんにちは。212号室の青柳です。
大阪医科薬科大学の薬学部に通っており、今年で5回生になったので、5月下旬より半年間島根の薬局と病院で実務実習を行います。
なのでしばらくの間寮にはいません。
現場へ行き、実際に薬剤師の業務を体験する事になりますが、薬の調剤や患者さんへの対応等が上手く出来るかどうか不安に思う事もあります。それでも、自分が目指す薬剤師になるために多くの事を経験し学んでこようと思います。
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2022.4.29(金)
こんにちは。212号室の青柳です。
大阪医科薬科大学の薬学部に通っており、今年で5回生になったので、5月下旬より半年間島根の薬局と病院で実務実習を行います。
なのでしばらくの間寮にはいません。
現場へ行き、実際に薬剤師の業務を体験する事になりますが、薬の調剤や患者さんへの対応等が上手く出来るかどうか不安に思う事もあります。それでも、自分が目指す薬剤師になるために多くの事を経験し学んでこようと思います。
こんにちは!またまた寺井です!
今日は私の学習環境についてお話ししたいと思います!
私の大学院には1人に1つずつ自習ブースが与えられています。毎日授業がない時間帯はそこで勉強して過ごしています。ちなみにこのブログを書いている今はお昼休みです。昼食を食べ終わり自習ブースで書いています。大学院の自習ブースは大学の図書館の自習ブースとは違って毎回空いているか空いていないかの心配をする必要がありません。また、自分専用のブースなので好きなようにカスタマイズできます。写真は私の自習ブースです。左側にはミニごみ箱と掲示板、真ん中にはカレンダーと高校卒業の記念品に学校からいただいた時計付きペン立て、右側にはファイル入れを設置しました。掲示板には提出物や時間割、大好きなアイドルの写真を飾っています。さらに写真の上には本棚、机の下にはキャスター付きの引き出しがありすごく充実した自習ブースとなっています!机上には色々なものを置いていますが、広いのでまだスペースに余裕があります。他の人も自分の机にぬいぐるみを置いたり、好きなアニメのグッズを並べたり、逆に何も置いていない人もいます。人それぞれ個性があふれていて見ていてとても面白いです!私の自習ブース写真を見て「これあるといいんじゃない!?」といいアイデアが浮かんだ人はぜひ教えてください(笑)
自習室のいいところはもう一つあります。それは友達です。私の自習ブースのご近所さんには仲のいい友達がたくさんいます。分からないことがあれば友達に聞きやすい環境が私にはとてもありがたいです。4人1列の自習ブースの並びとなっていますが、私の列は4人とも中国地方出身で、そのうち3人は山陰の出身です。大学院が仕組んだのでは?と疑ってしまうほど山陰が集結していて毎日楽しい!山陰ネタがつきません(笑)
学部生の時は家で島根、学校で大阪という感じでしたが、大学院に入ってからは家でも学校でも島根、最高です!
以上が学校の自習ブースですが、実は学生会館にも学習室があります。自分の個室では雑誌やらテレビやら誘惑が多くて集中できない!という学生は1階の学習室を自由に使うことができます。こちらは自分専用というわけにはいきませんが、なにより机が広い!学校の自習室よりも広くて向こう側に置いた教科書が立たないととれないことがしばしば。しかも、学習室の中にある本棚には歴代の先輩方の卒論や残してくださった教科書等自分の勉強に使える本がたくさん残っています。私も自習室の本棚にある法律用語小辞典にはいつもお世話になっています。学習室は消灯時間の23時を過ぎても使うことができるので、夜遅くまで電気がついていることもあります。みんな頑張ってますね!
今回は私の学習環境についてお話ししました。こんなにも学習環境が整っている人は珍しいと思うので、日々、自分の幸運に感謝したいと思いました。
こんにちは!大学院生の寺井です。
11月6日、7日に和歌山県で行われた国民文化祭、小倉百人一首かるた大会に読手として参加してきました。
国民文化祭、通称国文祭は様々な文化にかかわる催しをしていて、かるたもその一部門として毎年都道府県対抗の団体戦を行っています。国文祭での魅力はなんといっても選手役員みんな和装であることです!普段は、選手はジャージ、役員はスーツなのですが、国文祭はそうではありません。私も読手として和装しました。なかなか和装で読む機会はないのでとても新鮮な気持ちでした。
都道府県対抗戦なので、もちろん島根県チームも参加していました。島根県チームはメンバーのほとんどが私と同世代という若いチームですがみんなA級です!かるたの世界は狭いので、全員顔なじみ。高校時代からともに切磋琢磨してきたかるた仲間に会うことができ、とてもうれしかったです。また、島根県出身ではありますが今は他の都道府県でかるたをしている方々にもお会いしました。そして、みんなで集合写真をパシャリ!とても素敵な写真で一番のお気に入りです。国文祭でも島根を感じることができ心が温かくなりました!
今回の国文祭の読手の依頼は私にとって特別なものでした。私は高校総文祭でも読手を務めた経験があります。総文祭も各都道府県の高校生が団体戦をくんで戦います。国文祭はそれの全世代バージョン。中には名人クイーン、超A級の方々もいます。総文祭から5年の今年、このような大きな舞台で読手を務めさせていただき、本当に感無量でした。かるたを続けて良かったなと思える2日間でした
来年の舞台は沖縄です。読手はその地域にいる読手さんが務めるのでおそらく私に依頼は来ません。。。しかし、A級になって島根県チームの選手として出られたらいいなあとおもいました!
みなさんこんにちは。
3年生のとびたです。
暑くなってきましたが、皆さん体調いかがでしょうか?
私は早くも夏バテ気味になっています。。
さて、今年もコロナ禍で頑張っている寮生の支援として、仁多米を送っていただきました。
送ってくださってくださった方々、本当にありがとうございました。
私は早速、炊き込みご飯を作りました。
やはり、地元のお米を使用したのでいつも以上に美味しく感じますね。
ただ、地元のお米を食べると、地元の食材を使ったご飯のお供が欲しくなっちゃいました。
親に頼んで送ってもらおうかと思ってます。
今年の夏もご飯をいっぱい食べて乗り切ります!
ありがとうございました。
2021年6月15日
どーも!最近ジムに行けなくて困っている奥田です。
突然ですが、皆さんはSnapchatというSNSをご存じですか?
日本では浸透していないですが、アメリカではInstagramを凌ぐほど勢いのある、今最もアツいSNSです!!
将来的に日本でも流行りだすような気がします。
インスタのようなストーリー機能もありますが、ユニークなのがチャット機能で、一度メッセージを見るとメッセージが表示されなくなります。
なのでトーク履歴が残らない、なんとも便利なのか不便なのかわからない機能です(笑)
メッセージが残らないので、めちゃくちゃ気楽にやり取りできるところがいいところです!
僕はアメリカの友達のベンに入れさせられて始めましたが、なかなか面白く気に入っています。
気になった方はぜひダウンロードしてみてください!
こんばんは。ここ数カ月、全く外に出ず、金木犀の香りを感じることができなかったため、ネットで金木犀の香水を購入した4回生の寺井です。毎日、金木犀の香りで幸せです(笑)
さて、本日は最近寮でよく話す事柄についてここに記したいと思います。
最近寮で、自分の島根での暮らしをみんなで話すことが増えました。寮生はみんな島根県出身ですが、それぞれ市町村が違うため、暮らしの態様も様々なのです。
例えば「クマ鈴」。このブログを読んでいらっしゃる方に「クマ鈴」を知っている方はいらっしゃるでしょうか。クマ鈴はクマの接近を避けるためのものらしいのですが、寮生の中にはクマ鈴の存在を知らない人もいます。私からすれば、クマ鈴は小学校の時に特に山の中に住む児童が学校から支給されるもので、生活の中で普通に存在していたものですから、知らない人がいると知った時は驚きました。
また、各自宅に備え付けられている「無線」の有無も異なるようです。私も実家にはなかったものの、祖父母の家には無線があり、幼少期、そこから急に流れてくる男性の低い声に恐れおののいていた記憶があります。そんな低い声で「クマが出ました」なんていうものですから、夜寝られなくなるのも無理ありません(笑)
このように、県内でもどのような暮らしがなされているのか結構異なることが寮生同士で話していてわかります。そしてその会話の楽しいこと楽しいこと。市町村は異なっても、みんな島根愛は同じなのでしょうね、きっと。気づけば「うちはこうだった」「え、それ知らんかったわ!」なんて会話してます(笑)特に今年はコロナで帰省できていない学生が多いのでそのような会話になってしまうのでしょう。まだまだ私の知らないことはたくさんありそうです。
こうしてブログを書いているうちに日付が変わり、私がいつもお世話になっている大切な人の誕生日となりました!この場を借りてお祝いします!お誕生日おめでとう!いつもありがとう!!
以上寺井でした!!
こんにちは!4回生(5回生?)の萌です。去年留守にしていましたが2月から寮に戻ってきました!ネパールでのボランティア生活とフィンランドでの留学生活についてこれからちょこちょこ更新していきたいと思います!今回は留学中考えていた「家族ではない誰かと暮らすということ」についてのひとりごとです。
わたしは一人暮らしをしたことが無い。大阪に出てきてからは島根県民が集う特殊なこの寮にずっといるし、留学中もほかの留学生やボランティアと一緒に住んでいた。「誰かと暮らす」ことにはどんな意味があるんだろう。留学中そんなことを考えていた。
学校でボランティア活動をしていたネパールでは、3ヶ月間現地のご家庭でホームステイをしていた。お父さん、お母さん、9歳と6歳の息子がいる、ネパールにしてはとても裕福な家庭だった。家は三階建てだったしバスルームも各階にあった。(洗濯機はなくて洗濯物は手洗いだったしドライヤーもないしよく停電断水するけどそれはもはやネパールの常識)。子供たちとは折り紙をしたりサッカーをしたり一緒にプールに行ったりよく遊んだし、ホストマザーは料理が上手で親切だった。
だけど、わたしが「一緒に暮らした」とより言えるのは、同じ部屋で過ごしてきたルームメイト達だと思っている。
7-8畳くらいの部屋だっただろうか。そこに3つのベッドが設置されていて、各国から来たボランティア達と時間を共にした。朝晩ご飯は一緒に食べたし停電や断水とも戦った。それぞれのボランティア先でしんどいことや嬉しいことがあったら一番に共有しあったしお互いの国の言語を教えあうなど他愛のないことからこれからの人生についてまでなんでも語った。
そんな暮らしをしていると何が起こるか。わたしの場合、プライベートな空間・時間がほとんどない環境で自分の中でのオン・オフの感覚が曖昧になっていった。だれしも「ウチ」「ソト」で自分自身の行動や気の持ちようはある程度異なると思う。その2つの境目がほとんど無くなって、ウチモードとソトモードが融合していったのだ。ウチモードが拡大していったと言う方が近しいだろうか。それは他人が他人でなくなっていく感覚と等しい。時間と経験を経るにつれ「外国人と同居」という感覚から「友達であり家族みたいな人との暮らし」というリラックスした感覚に変わっていったのだ。文化や言葉の違いで理解できないことや気を使うことなんかはもちろんあったけど、気を許すとそれらも共有できて解消出来るようになっていった。「一緒に暮らす」という経験がなければ、きっとあの子たちとはフィンランドからそれぞれの国を訪ねていくほど近い関係にはなれてなかったんじゃないかと思う。国が違っても、同じ家、部屋で暮らすことで広義の「家族」を得られるんだなあと思った体験だった。
その後交換留学で4ヶ月ばかり滞在したフィンランドでは、留学生向けのアパートを借りて住んでいた。キッチンなどを共有するフラットメイトはなんとわたし含め8人で、2人部屋が4つあるという大所帯だった。フラットメイトは全員アジア圏からの留学生でシンガポール人が4人、中国人が2人、台湾人と日本人(わたし)が一人ずつでわたしのルームメートは台湾人の女の子だった。この子がまた今までの人生で出会ってきた中で1.2を争うほどのいい子で、私がどんなにオチのない話をしてもいいリアクションをしてくれるししっかり者でいろいろな情報をくれるしスポーツ万能だし、とにかく最高だった。部屋に帰ってその日の出来事を共有できる相手がいたのは本当に留学生活の一つの支えだったし、アジア圏でコミュニティが近かったこともありたくさんグループでも遊びに行った。友達、だけどみんなで遊んでいても最後は同じ部屋に帰るというなんだか特別な関係を4か月間楽しませてもらった。
ネパール、フィンランドでの共同生活の話を友人にすると必ず、「そんなプライベートない空間でよく暮らせるね」とか、「疲れそう」とリアクションされる。わたしもやってみるまではそう思っていた。気を遣ったり人の存在を意識しすぎると確かに疲れるから、話したいときはがっつり話すけどお互いの時間も大事にして無言の時間はしっかり無言という距離感が大事だったんだろうと思うし、その無言の時間が距離を縮めていったような気がする。
私にとって「家族でない誰かと暮らす」というのは、自分のいくつかの面の統合であり、「ウチ」と思える範囲の拡大である。人が自分を飾らない「家」という場所で関わることは、外での関わりとはきっと違う。私はそんな環境で自分や他人とのかかわり方を探っていくのが好きだなと思うし、そう思わせてくれた歴代のルームメイトや寮生たちに大感謝である。
あと一年この寮でまた新しい関わり方をみんなで探っていけたらと思う。
ここまで読んでくださった方、もしいたらありがとうございます!笑
久々に文章を書いたら楽しかったのできまぐれにまた更新するかもしれないです。
それでは!(*’ω’*)
賀戸佑丞
Ⅰ
本稿はこれまで寮のブログで連載していたものの第四回である。これまではなるべく客観的記述になるよう抑制してきたが、本稿では私の主張したかったことをそのまま記述していきたいと思う。そのため、これまでの連載を読んでいない方も理解できる内容になっていると思う。
これまで私は現代に特徴的な恋愛についてまとめ、それらが恋に落ちることとどのように異なるのかを述べてきた。そして愛の行為とはどのようなものかについて述べた。恋に落ちることと愛の行為は日常性からの逸脱という点では共通している。恋に落ちた者はそれ以前のままではいられなくなり、何らかの変容と行動を迫られる。愛の行為では主体同士の間にそれまでは存在していなかった関係性が発生する(あるいはこれまでの関係性を更新する)。私が恋に落ちることと愛の行為を肯定するのは、しばしば硬直的なものになりがちな日常を組み替える力をもつからである。
ただし私は第三回の終わりにオタク的恋愛・市場的恋愛と恋に落ちることは本質的な差異はないのではないかという考えを示した。つまりこれらは自然な恋愛、すなわち恋愛と日常のバランスを調和させた恋愛を開始することができないことに対する反応としてとらえた。オタク的恋愛・市場的恋愛では現在の日常の変容に対してあまりに消極的である、あるいは自己防衛的である。一方で恋に落ちることは日常をあまりに性急に変容させる、あるいは破滅的である。
前回まででおおよそこのようなことを述べてきた。このような分析は確かに幾ばくかの価値があるのかもしれない。しかし結局大事なのは行動すべき時に行動できるか、タイミングを逃すことなく決定的な行動に踏み出せるかなのではあるまいか。本稿では以下でこの問題について考えていく。つまりいかにして決定的な行動、すなわち日常性を逸脱した行動をとることを正当化するかという問題である。
まず題材として夏目漱石の『三四郎』を扱おう。恋愛について考えている我々にとって夏目漱石は重要な作家である。彼はまさに自由恋愛という概念が西洋近代文学を経由して日本に輸入されてきた時代に活動していた作家である。そして彼は自由恋愛というものへの違和感を積極的に小説の中で描いた。本稿で扱う『三四郎』は恋愛の対象としての女性と対峙することになった男性の戸惑いを描いた作品である。
『三四郎』は主人公小川三四郎が進学で熊本から東京に上京する物語である。本小説では三四郎の周辺の都市生活や学生生活などが描かれるのだが物語の主軸は三四郎と美禰子の関係の展開に置かれている。三四郎は美禰子に初めて会った時から彼女に恋に落ちる(三四郎自身はそのことをほとんど自覚していない)。美禰子も三四郎を意識しているような素振りをする。それに対し三四郎は美禰子の言動の真意は何なのか、つまり美禰子は三四郎に気があるのかどうか思い悩む。三四郎はいつまでも恋愛に踏み込むことができない。そうこうしているうちに美禰子の縁談が決まり、彼女は金持ちの実業家と結婚してしまう。
実は三四郎は上京する際に汽車で一緒になった女性と成り行きで同じ宿の部屋に泊まるという経験をしている。三四郎はさっさと寝てしまったのだが、あくる日の別れ際に女性から「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と告げられる。三四郎は激しく動揺し以下のように反省する。
―元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るのものだろうか。女というものは、ああ落ち付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行ってみると可かった。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云われた時には、喫驚した。二十三年の弱点が一度に露見したような心持であった。親でもああ旨く言い中てるものではない。・・・(『三四郎』新潮文庫p15)
しかし、この三四郎の反省が美禰子との関係で生かされることはなかった。三四郎は美禰子の意図を図りかね右往左往するのみで「行ける所まで行ってみ」ようとしなかった。たしかに美禰子は三四郎に対して好意をもっていたのかどうかは微妙な問題であり読者の間でも見解が分かれる(男性読者は美禰子には好意があった、女性読者はなかったと解釈する傾向があるらしい)。しかしだからこそ三四郎は「行ける所まで行ってみ」て、美禰子の意図を確かめるべきではなかっただろうか。
いつからか「草食系」という言葉が膾炙した。この言葉は一般には恋愛や異性との交流に対して消極的な様に対して使われている(※注1)。三四郎も現代では草食系と評されるだろう。
草食系の人々は繊細かつ鈍感である。彼らは他者がどのように感じるか、そして自分が他者を傷つけてしまうことに人一倍敏感である。しかし一方で彼らは自らの主観で他者の考えていることを決めつけがちで、他者が実際のところどのよう感じているかに対しては鈍感である。それゆえ彼らは自らの行動を厳しく自主規制し、そしてそのことをある種の「やさしさ」であると考えるが、これは他者への鈍感さの上に成立しているのである。
むろん彼ら自身も自らのやさしさが欺瞞的なものであることに薄々気付いている。しかし彼らは思考のループから抜け出すことができない。自らの世界に閉じこもり、リアルな他者に触れることができない。よって彼らはいつまでも恋愛を始めることができない。
彼らが自らの観念の世界から外に出るための手段こそが「行ける所まで行ってみ」ることではないだろうか。「行ける所まで行ってみ」たとき初めて他者が実際のところ何を考えているのかがわかるのではないだろうか。リアルな他者に触れることができるのではないだろうか。
ただし「行ける所まで行ってみ」ることと恋愛工学のような確率論とは注意深く分けなければならない。私は恋愛工学のような確率論を恋愛に持ち込むことはクソだと考えている。なぜなら確率的な思考は目の前の他者が生身の人間であり、完全に特異な存在であるという事実を捨象してしまうからである。「行ける所まで行ってみ」ることは一つのテクニックに堕してしまってはダメなのであり、常にリアルな他者を目指すものでなければならない。
私たちは行動しなければならない。行動しなければリアルには触れられない。しかし一方でこのような行動は周囲との間に少なからぬ摩擦を引き起こしかねないし、自他ともに傷つくリスクを伴うものである。それにもかかわらず私たちは行動することを肯定しなければならない。「行ける所まで行ってみ」ることを正当化しなければならない。そうしなければ私たちは前に進むことができない。
なぜわざわざ正当化しなければならないのか。それは草食系にとって自主規制的道徳は彼らの日常生活のなかから自然に生まれたものであり、「行ける所まで行ってみ」るという行動原理は人工的なものだからである。この行動原理を受け入れるには自らの中でそれを恣意的に正当化するというプロセスが必要なのである。ではその正当化とはどのようなものになるだろうか。それを次章で示していきたい。
(※注1)草食系を考えるうえで恋愛に興味があるが消極的であることと、端から恋愛に興味がないことは分けて考えなければならない。本稿では草食系という言葉で恋愛に興味があるが消極的である人々を指している。ただしこの二つの区別は現実には曖昧であると思われる。なぜなら本当は恋愛に興味があるのに興味がないと自らを偽る、「すっぱい葡萄」パターンもあるからである。
Ⅱ
本章で述べられるのは、「なぜ行動しなければならないか」ではなく「行動においていかなる原理を据えるのか」である。この違いは一見分かりにくいが草食系にとっては重要な意味がある。彼らは行動したほうが(長期的には)有益であることを知っている。つまり彼らは行動するための理由をもっている。しかし彼らは自前の道徳によって自らの行動を自重してしまう。他者を傷つけないこと、そして自分が傷つかないことが優先される。私たちはこのような似非道徳が行動原理として据えられている状態から脱却し新たな原理を求めなければならないのである。
ここで重視したいのは時間性である。人間は現在にのみ生きているのではない。人はときに過去あるいは未来の視点から現在の自分の姿を捉える。そうすることによって現在の自分の在り様や置かれている環境を相対的に捉えることができる。
結局のところ現在の行動の意味を最終的に決定するのは未来である。私たちはこの未来の視点を内面化することによって、今ここの自らの感情に振り回されがちな似非道徳から抜け出ることができる。では、この未来からの視点の議論を深めるためにスラヴォイ・ジジェクの議論を参照する。
ジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』と『事件! 哲学とは何か』においてローザ・ルクセンブルクの議論を参照し、行動と時間の関係を論じている。
社会主義者のローザ・ルクセンブルクは労働者階級にとって最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」であると述べている。彼らが権力奪取にとっての「適当な時期」を迎えるためにはたんに待っているだけでは生きてそれを見ることはできない。「適当な時期」は、一連の「時期尚早」な企てが失敗した後ではじめてやってくる。
ジジェクによると、重要なのはこのプロセスにおいて超越的な立場、つまり全体を俯瞰してちょうどいい時期に達するために何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような立場はないということである。それゆえに行動はつねに早すぎると同時に遅すぎる。主体は常に条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒さなければならない。同時にそのような行動が必要とされるという事実は行動が遅すぎたことを示している。
このような行動に対する考え方は恋愛にもそのまま当てはまるのではないだろうか。私たちが恋に落ちたとき、条件が整うことを待っていても「適当な時期」がやってくることは永遠にない。私たちは性急な、摩擦が生じるような行動をせざるを得ない。一方で私たちは恋に落ちているとき、同時に自らの行動が「適切な時期」をすでに逸した、遅いもののようにも感じる。
私はこのような行動原理によってこそ草食系は似非道徳的ループを抜け出すことができると考えている。草食系は自らの行動を決定する際に相手がどのように感じているかを過大に評価し、自らのしたい行動を実行に移すための適切な時期ではないと判断する。これはまさに超越的な視点にもとづいてものごとを捉えようとする態度である。しかしこのような超越的な立場は現実には存在しない。草食系は「時期尚早な」行動に踏み出さなければならない。超越的な立場から脈があるかないかとウダウダと悩んでいても脈は決してこない。
そしてジジェクはそのように「時期尚早」に且つ本気で行動したときに得られる教育的効果についても述べている。労働者階級が本気で政権奪取を目指したとき、そこから得られる教育的効果によって主体は変容する。彼らが自らの行動は所詮時期尚早な行動のプロセスのひとつに過ぎないと理解し、目の前の行動に本気にならなかったら、労働者たちへの教育的効果は失われる。
この考え方も恋愛にも当てはまるのではないだろうか。私たちが目の前の恋愛に本気でコミットしたとき私たちは変容する。もちろんそれがどのようなものなのかは事前に予測することはできない。しかし目の前の恋愛に本気でコミットしなければ、すなわち自らに行動あるいは精神にブレーキをかければ教育的効果は望めないのである。
このような考え方は恋愛以外にも当てはまるだろう。この教育的効果とは副産物のようなものである。私は本気で取り組んだ時に得られる副産物こそが人生を豊かにするものだと考えている。私たちはついつい目の前の主要な問題、あるいは損得勘定に目を奪われがちだが取り組む過程で得られる副産物をも計算することを忘れてはならない。
私たちは奇跡を本気で信じなければならない。ジジェクによると我々にとって耐えがたいことは奇跡が起こらないことではなく奇跡は実際に起こるということである。奇跡を信じるものは何かを手に入れる。奇跡を信じないものは何も手に入れることができない。私たちはぬるく保身的な欲望に惑わされることなく、自らの本当の欲望を追求すべきである。そうすれば仮に自らの元々の欲望が成就しなくても私たちは副産物を手にすることができる。私はいまや恋愛そのものよりもこの副産物こそが本質的なものであると考えている。
Ⅲ
以上が似非道徳にとって代わるべき行動原理である。正直私自身にとっても実現することが難しいものである。しかし私たちに躊躇している時間はない。ジジェク曰く、将来の破滅を回避するための唯一の方法はその破滅を回避することは不可能であることを受け入れることである。将来の破滅がおこる未来の視点から「もしこうしていれば破滅を回避することができたかもしれないのに」という行動を現在に挿入することによってのみ破滅は回避できるのだ。
私の問題意識の根底には「リアルなものにどうしたら触れることができるのか」という考えが常にあった。しかしいまこれまでの連載を振り返ってみるとその目的が達成されているとは言い難い。それどころか私の文章はますます現実から遊離し、空転するばかりである。現実にはほとんどの人が私の考えているようなことを考えることなく日々生活し、恋愛し、結婚し、子どもをつくる(もちろん彼らは何も考えていないと言いたいわけではない)。この圧倒的現実に対して私の文章は藁の家の如く一瞬で吹き飛んでしまう。
考えれば考えるほど現実から離れてしまう袋小路から抜け出すためにまた考えてしまうのは罠でしかない。常識的な考え方だが、結局のところこの袋小路を抜け出すための手段は、思考と行動を同時に行うことである。
恋に落ちているとき、思考と行動のズレの問題は先鋭化する。人は恋に落ちているとき相手と懇意になるために事前にあれこれ考えて行動の計画を立てようとする。しかしこれまで他者と仲良くなるという経験のなかで、事前に立てた計画に沿って行動した結果として仲良くなるということがあっただろうか。成り行き任せで仲良くなることがほとんどではないだろうか。どうやら我々はまさにこの人と仲良くなりたい、この人に好意をもってもらいたいと考えると圧倒的に思考が先行し行動を置き去りにしてしまうようだ。
成り行きで仲良くなることに比べて、成り行き任せでは接点すらないような人と仲良くなることはかなり難易度が高い。成り行き任せで仲良くなるとは適切な時期に適切な行動が自然と行うことができているということである。一方で成り行き任せとはいかない場合の行動は常に遅すぎるか早すぎるかである。遅すぎる場合は仲良くなることはいつまでたってもできない。早すぎる場合にのみ、すなわち時期尚早な行動に踏み切った場合にのみ相手と仲良くなるチャンスを得る。
もちろんそれは賭けである。しかし負けることのない賭けでもある。たとえ相手と仲良くなることがかなわなくても、恋に落ちたときの主観的経験や様々な教育的効果は私たちの人生を豊かなものにすることに必ず貢献するであろう。私たちが恐怖に囚われさえしなければ人生全体のバランスシートは常にプラスになるのである。
もう一度やれ。もう一度しくじれ。前よりうまくしくじれ。 サミュエル・ベケット
私は大学で自転車サークルに所属しています。夏には北海道で合宿をしたり、秋には鈴鹿サーキットで8時間のチーム戦の耐久レースに参加したりしました。これらの活動を通じて、自転車に乗ることの楽しさ、終わった後の達成感を感じることができました。そして、先輩方についていくだけではなく、自らで考え主体的になって自転車の旅に出てみたいと思うようになりました。そこで今年の2月、自転車での四国一周の旅を計画しました。日程は2月23日から29日の一週間です。この旅に出る前に四国一周したことのある先輩から宿の選び方、一日の距離の設定など様々なアドバイスをしていただきました。感謝しかありません。
四国へは神戸から高松まで深夜便のフェリーが出ているのでそれを利用していきました。高松には朝の五時につきました。高松はとても寒く風が強かったですが、ここから旅が始まるのだと期待感でいっぱいだったのを覚えています。その日は、追い風であり初日であったこともあり昼の三時には目的地の徳島県南部の美波町につきました。足湯に入りながら、疲れをいやしたのがいい思い出です。
二日目は朝の七時に出発しました。この日の目的地は166キロ離れた高知市です。途中おばちゃんにコーヒーでも飲んで頑張れと200円もらいました。人の温かさに触れとてもうれしかったです。
三日目はこの旅で一番肉体的にしんどかった日でした。この日は七子峠という峠を越えました。6キロの坂道を休憩することなく上っていきました。限界を超えるとはこういうことかと思いました。いや、本当に大変でした。
四日目は先輩に清水サバがおいしいと聞いていたので土佐清水市を経由して宇和島市に向かいました。土佐清水市に到着したのは9時だったのですが、清水サバを提供している店が11時開店だったので、そこら辺のおっちゃんと会話しながら待ちました。11時になり入店して、清水サバを刺身で頂きました。おいしかったですが、食べ終わった時刻は1時でこの時点でまだ100キロの距離がありました。タイムリミットは日没の6時まで。しかも、この日は強風注意報が出ていてほとんど向かい風に近いような風が吹いていました。途中の休憩時間は最小にして、急いで向かいました。途中何度も発狂しながらもあきらめずに走り続けました。そのかいあって、何とか6時少し過ぎたあたりで到着できました。ライトアップされた時の宇 和島城を見たときは泣きそうでした。
五日目は宇和島市から松山市までの113キロの道のりでした。この日は相変わらず風が強いものの、天気は良く気持ちよく走ることができました。お昼に食べた鉄板ミートスパゲッティが絶品でおいしかったです。
六日目は少し寝坊して朝の八時半から走り始めました。途中の今治市では事前に先輩に教えてもらった名物の卵飯をいただきました。とてもおいしかったです。今治市に行かれる際はぜひ食べてみてください。この日は結局、愛媛県東部の四国中央市まで121キロ走りました。
最終日の七日目は出発地、高松市まで漕ぎました。この日は天気予報で午後から天気が下り坂になると聞いていたので少し早めにスタートしました。帰りはこの日の16時の高松港発のフェリーなので、14時には高松につくよう走りました。さすがに最終日なので全身に痛みやけだるさを感じながら、初日に比べると時速5キロも遅い速さでなんとか進めて行きました。丸亀市に入ったあたりから、雨が降り出してきたので、雨具に着替えました。そして、漕ぎ続けているとついに高松市に入りました。ここで少しガッツポーズしてしまいましたが、ここから高松港がある市内中心部まではまだ10キロ近くあります。これが、なかなか遠いんです。途中、合羽を着て自転車に乗っている高校生に親近感を抱きながら市の中心部に向かいました。そんな感じで走ること30分、ついにゴールの高松港にたどり着きました‼たどり着くまでは辛いこともたくさんあったけれど、達成感で胸がいっぱいになりました。一人で行い精神的にも厳しかったからこそ、大きい達成感を得ることができたのだと思います。そのあとお昼ご飯を食べたりしてから、16時発のフェリーに乗り込み四国を後にしました。
最後になりますが、この旅はいろいろな人の方の支えがなければ達成できなかったと思います。本当にありがとうございました。
本当に四国一周楽しかったー―――――――――!!!!!!!!!
第3回 愛についての考察
賀戸佑丞
今回のテーマは愛である。漠然とした捉えどころのないテーマだが、やはり恋愛について考えるうえで避けては通れないテーマである。愛のない、あるいは志向しない恋愛とは恋愛の名に値しないものだろう。逆にラカンが言うところの愛の最も崇高な瞬間、すなわちこちらの差し出した愛に対して相手が愛で返す瞬間が一度でもあれば、その恋愛は永遠に記憶に残る素晴らしいものになるだろう。
愛について考えることの必然性を強調したが、私の乏しい人生経験ではすべて自分の言葉で愛について語ることなど無理な話である。よって例のごとく、ここでも先学の力を借りたいと思う。本稿ではラカンによる愛の定義「愛とはもってないものを与えることである」というテーゼを起点にして愛について検討していきたいと思う。このテーゼはラカンによるその他のテーゼと同じく抽象的かつ多義的である。よってここではこの愛の定義を自分なりに言い換えてみたいと思う。それは『愛とは「もっていないこの私がそれでもあなたのために何ができるか」という問いに対する答え、あるいは答えようとすること』である。
具体的な場面を想像してみよう。親が子どもからおもちゃをねだられるがそのおもちゃを買う金銭的余裕はない。そこで親は自らの創意工夫を込めた代替物を子どもに与える。私たちはそのようなシチュエーションに親からの子どもへの愛を感じないだろうか。(注1)
(注1)ジジェクによると子どもが親に対して「なぜ空は青いのか」などと答えようのない質問や無理な要求をするのは、単に知的好奇心からだけではなく親の無能を暴くためであるという。本章の議論につなげると子どもは親が自らの無能を暴かれた後に何をするのかを見ようとしているのではないだろうか。子どもは親の愛が顕現するためのスペースを開こうとしているのである。よって子どもの要求を常に文字通りに実現してはいけないのである。そのような対応は愛が顕現するためのスペースを潰してしまうことになる。そして同じことがあらゆる人間関係に対しても当てはまるであろう。ラカン曰く「あらゆる要求は愛の要求である」。
愛の行為は多くのフィクションに見出すことができる。その例としてまず、やなせたかし原作『アンパンマン』を取り上げよう。アンパンマンはお腹を空かせ困っているひとに出会うとアンパンでできた自らの顔の一部をちぎって差し出すことで有名である。この行為は本稿での愛の定義に当てはまる行為である。アンパンマンは自らの所有物を差し出しているのではなく、自身の一部を差し出しているからである。さらに顔が欠けるとことによって自らの力が弱まるという事実がこの行為を一層崇高なものにしている。
もしアンパンマンがパトロールの際、事前にお腹を空かせたひとが現れることを見込んでパンを準備し、そのパンを配るようにしていたらどうだろうか。その場合にはアンパンマンはいいひとではあるが、愛の行為の実践者とはならないだろう。つまり愛の行為とは事前に計画して、そして余裕をもって為されるようなものではないのである。
このようにフィクションにみられる愛の行為を検討していくことは、愛についての理解を深めていくのに有効である。次に取り上げたい題材は新美南吉『ごんぎつね』である。凡そのあらすじはほとんどの読者が知っていると思うが、本稿にとって重要だと思われる部分を中心に簡単にまとめておこう。
いたずら好きの「ごん」と呼ばれる子ぎつねは兵十が長雨で増水した川から獲ったばかりのウナギを逃がす悪戯をする。後日、「ごん」は兵十の母が亡くなったことを知り、あの時逃がしたウナギは兵十が母に食べさせようとして獲ったものだと解釈し罪悪感を感じる。そこで「ごん」は償いとして栗や松茸などを兵十の家に毎日届けるようになる。兵十は「ごん」が届けたものとは知らず神様のしわざと考えるが、そのような兵十に「ごん」は苛立つ。最後には「ごん」は食べ物を届ける姿を兵十に見つかり、銃で撃たれてしまう。この時兵十はこれまでの贈り物が「ごん」によるものであったことを知り、そして「ごん」はそのことをうれしく思いながら死んでいく。
以上が『ごんぎつね』のあらすじである。この作品は様々な視点から解釈が可能であるが本稿ではもちろん愛の行為という視点から『ごんぎつね』を検討していきたい。
『ごんぎつね』ではまず最初にあらわれる愛の行為は兵十によるものである。兵十は死にゆく母のために、増水した危険な川に入りウナギを獲っていたのである。しかし「ごん」がこの愛の行為を悪戯によって妨害したため、兵十は母にウナギを食べさせることができなくなってしまう(「ごん」は少なくともそう考えた)(注2)。「ごん」はそのことによって罪悪感を感じ、毎日兵十に贈り物をすることになる。この「ごん」の行為、毎日食べ物を人家まで運ぶという行為は愛の行為と言えるだろう。しかし(注2)で検討したようにこの愛の行為の達成は単に食べ物が届けられることによってではなく、兵十が「ごん」から愛を受け取ることによってである。つまり「ごん」の愛の行為が達成されたのは兵十によって「ごん」が撃たれた場面である。兵十がこれまでの贈り物の主が「ごん」であったことに気付くことによって「ごん」の愛の行為は達成されたのであり、そうであるがゆえに「ごん」はうれしくなったのである。
ここで『ごんぎつね』のその後を想像してみよう。おそらく兵十は「ごん」を撃ち殺してしまったことに罪悪感をもつだろう。それは殺してしまった小動物に対する憐みのような感情とは異なるものである。それは「ごん」からの愛の行為を受け取ることに失敗してしまったことからきている(少なくとも兵十は失敗したと考えるだろう)。兵十がこの罪悪感を軽くするための方法は「ごん」を固有名として弔い続けることである。
以上の検討を通して『ごんぎつね』から愛について以下のことが読み取れる。他者の愛の行為を妨害したり、受け取ることに失敗すれば、象徴的な借金を背負うことになるということである。この象徴的借金を返済するための唯一の方法は自らも愛の行為を行うことである。『ごんぎつね』は愛の行為の失敗の連鎖の物語なのである。
しかし仮に愛の行為をうまく受け取ることができた場合においても、愛の行為に見合う返礼は愛の行為しかない以上やはり愛の行為を行わなければならない。つまり、愛の行為は必然的に連鎖していくのであり、ひとつの愛の行為は次の愛の行為を生み出すのである。
このテーゼからはいくつかの現実的な教訓が引き出せるだろう。他者から愛を与えてもらうための蓋然性の高い方法は自分から他者に愛を与えることである。そうすれば他者は応答として愛を与えてくれる(かもしれない)。
もうひとつは愛の行為を行う力のない者、あるいは行う気のない者は愛から遠ざかっていくということである。これは他者が愛を与えてくれないということだけでなく、自らそのような愛を贈与しあう関係から距離をとっていくということでもある。返礼を返すことができないものを受け取ることは心苦しいものである。ゆえに愛の行為を行うことができない者は愛の贈与の関係に入ることを躊躇するのである。
ここでなぜある種の人は愛の行為を行うことをためらうのか、そしてなぜ一般的にも愛の行為には独特の重みが生じるのかを考えてみよう。これは愛の行為に対する理解を深めるうえで重要な問題である。この問いに対する私の考えは、「愛の行為は究極的には常識や慣習に頼ることができず、その人の核のようなものを晒してしまうからである。」というものだ。愛の行為は普段我々が従っている日常生活を円滑に安全に進めるためのプログラムには規定されていない行為であり、プログラムから見れば存在しないはずの行為である。ゆえに愛の行為とは人間の根源的自由に基づくことになる行為である。そしてその行為の責任は自らが全面的に引き受けることになる。愛の行為へのためらいとは自由と責任を引き受けることへのためらいであり、すなわち絶対的「個」の存在であるところの私を引き受けることへのためらいなのである。
脱線しつつある流れを本題に戻そう。我々はここまで『ごんぎつね』を題材に検討を行ってきた。ここまでで見えてきた愛の行為は大衆文化で流通しているような愛とは少し?違っていることに気付いただろうか。愛の行為とは大衆文化でも見られるような美しさ、尊さを湛えている一方で、関係したものを愛の贈与のネットワークへと引き込み、そして愛の行為の連鎖へと巻き込んでいく。このような愛の不気味なあるいは厄介な側面については一般的にはあまり触れられないが、この側面を抜きにして愛についての包括的な理解は不可能であると考えている。
(注2)ここで兵十の母への愛の行為は失敗してしまったのを考えてみたい。常識的に考えればウナギを母に食べさせることができなかったので失敗しているように見える。しかし、「あらゆる要求は愛の要求」なのであり、ウナギそのものは究極的にはどうでもいいのである。この愛の行為の成否はウナギを食べさせることができたかどうかではなく、母が兵十の行動から愛を感じることができたかどうかにかかっているのである。
私たちは愛の行為の不気味で厄介な次元についてさらに検討していく。そのための題材としてチャールズ・チャップリン監督主演の『街の灯』(1931)を扱いたいと思う。
この映画のあらすじを簡単にまとめると「チャップリン演じる浮浪者が喜劇的な方法で大金を手に入れる。浮浪者はそのお金を貧しい盲目な花売りの女性に渡す。そして女性はそのお金で手術を受けて視力を回復しさらに自分の店を持つようになる。」というものである。本稿において重要なのは二人が再会するラストシーンである。よってこのシーンを詳述していく。
浮浪者はお金を渡した後逮捕されていたので女性のその後を知らない。そして女性は盲目であったのでお金をくれたのが誰なのかを知らない。よって彼女は自分にお金をくれた人は富豪であったと思い込み理想化されている。そのような状況で、出所した浮浪者は自身の店で楽しそうに働いている女性に偶然再会する。女性は浮浪者に対し、情けから花とわずかばかりの施しを行おうと店先に出る。浮浪者は慌てて逃げようとするが女性の呼びかけによって立ち止まり、おそるおそる花を手に取る。そして女性が施しを握らせようと彼の手に触れた時、彼女は自分にお金をくれたのはこの浮浪者であったことに気付く。女性は困惑の表情を浮かべる。
“You can see now?”
“Yes, I can see now”
彼女は自分にお金をくれた男の正体を見たのである。この後浮浪者の不安と期待の混じったような、恥ずかしそうな微笑みのクローズアップで映画は終わる。
このラストは一見最後に奇跡的な再会を果たしたハッピーエンドのようにも見えるが少し考えてみればかなりあいまいな終わり方であることがわかる。特に注目すべきは女性の困惑の意味である。普通に考えればこの困惑は彼女の中で理想化された、すなわち白馬に乗った王子様のような存在になっていたお金をくれた男が実際には浮浪者であったという事実から来ているように解釈できる。しかしこの困惑にはもう一つの意味が含まれているように思われる。それは、「なぜこの浮浪者は浮浪者の身の上であるにもかかわらずこの私に大金を渡したのだろうか」という困惑である。浮浪者の行為は富豪の施しとは違い、もってないものを与える愛の行為であった。そしてそれゆえに女性からすれば浮浪者が何を考えてそんなことをしたのか理解できず不気味なのである。
ここでジジェクによるラカンの愛の定義の補足を参照してみる。「愛とは自分の持っていないものを与えることである。—それを欲していない人に」。それゆえに愛の行為は最終的には好意的に受け取られるとしても受け取る側に困惑をもたらす。愛の行為は常に受け取る側の予測を超えたものであり、当初より望まれていたような行為でない。
多くのフィクションでの愛の描き方はこのような不気味さをみるものに感じさせないようになっている。そして私たちの日常でも慣習や通俗的な道徳にどっぷり浸かることによって愛の行為の不気味さに直面しないで済むようになっている。例えば恋人間での愛や親子の愛などにも不気味な次元は存在するが、私たちは現実を常識、道徳、物語を通して解釈することでそのような不気味さに直面することなく平穏な日常を送ることができているのである。
余談になるが『街の灯』のラストシーンのその後がどのような展開になるか考えてみよう。この映画がハッピーエンドになるには浮浪者からの愛に対して女性が愛で返さなければならない。それは少しばかりの施しくらいでは到底足りない。通俗的ハッピーエンドのためには浮浪者と女性が結ばれる(女性が自身を差し出す)ことが必要に思われるが、映画ではそれを予感させる描写は存在しない。
また浮浪者側からすれば話はより複雑である。ひとは相手との関係を築く際には相手にとって自分は何者なのかを規定することによって相手とうまく関わることができるようになる。浮浪者の場合、彼は自分を貧しくて盲目な可哀そうな女性を助ける存在として規定したはずである。映画では浮浪者は女性を助けることができたが、このとき彼はそのことによって女性に対する自らの役割を失うことになる。もはや健康的で自立した女性に対してできることは浮浪者にはない。彼は何の役割も担えないただの浮浪者そのものになってしまったのである。ラストシーンの浮浪者の恥ずかしそうな微笑みはもはやただの浮浪者でしかない姿を女性に晒してしまっていることからきているのである。
このような状況において浮浪者の態度はアンビバレントなものになっている。このことは女性が花を渡そうとして近づいたとき、浮浪者が一旦逃げようとするが女性の呼びかけにすぐ立ち止まったことに表れている。浮浪者は女性に対してかつての恩人がただの浮浪者であったことを知られたくないが、しかしお金を渡したのは自分であったことに気付いてほしくもある。結果的に女性は目の前の浮浪者の正体に気付くことになるが、その時浮浪者の愛の行為は完遂されることになる。『ごんぎつね』のラストのようにお金をくれた人が誰だったのかを知ったとき女性は愛を受け取ることになる。同時に女性は愛の行為を受け取ったものという立場に立たされる。つまり女性は愛の行為の連鎖に巻き込まれる(もちろん愛を返さないことによって拒絶することもできる)。
以上の検討を踏まえると、二人にとってラストシーンで再会することがよかったのかどうか微妙なところである。二人が再会しなければ映画内での一連の出来事はただ美しい思い出として記憶されていくことになっただろう。しかし再会によって過去の出来事の意味は変わる。浮浪者の匿名的な、人助けとして完結していた行為が愛の行為となる。そして新たな問題の出現、つまり女性は私の愛を受け取りそして愛で返してくれるのか否か、あるいは私を承認してくれるか否かが問題となってくる。
この後の展開はおそらく女性は愛で返すことができず、そして浮浪者は自らの役割を再び見出すことのないまま二人は別れていくのではないだろうか。偶然二人が再会し、浮浪者の過去の行為が愛の行為へと変質したことによって、この映画は切なくそしてやりきれない感情を抱かせる作品になっているのである。
本稿のまとめに入っていこう。ここまで考察によって愛についての包括的理解に向けてのヒントは手に入ったと思う。愛とは一般的には特定の他者(その他者の範囲はどこまでも拡張可能である)を大切に思う気持ち、慈しむ気持ちだと理解されており、愛の行為とはそのような感情に基づいた行為ということになる。本稿ではラカンのテーゼから始まり、愛を「もっていないこの私がそれでもあなたのために何ができるのか」と定義して展開してきた。この定義は一般的に考えられている愛に比べて限定的で実行が困難なように思える。しかしこの定義によって私たちは様々なフィクションのなかに現れる愛に対してより深い考察を行うことができたと思う。
私は本稿で愛の厄介な側面を強調してきた。愛の行為は主体の絶対的自由と無限の責任に基づく行為である。そしてそれを受け取った者は事前にそれを望んでいたわけではないにもかかわらず、愛の贈与の連鎖へと巻き込まれてしまう。このような愛に対する理解は一見ネガティブなものに見えるが、しかし私は愛のこのような特質こそ愛のもつ力、可能性の源泉であると考える。では愛のもつ力、可能性とはなんなのか。
それは「システム」による硬直性を動揺・撹乱させ新たなダイナミズムを生み出す力である。ここでいう「システム」とは法、制度、常識、慣習、道徳など私たちが多くの他者と関わりながらも円滑に、そして安全に日常生活を送ることを可能にしているものである。ただし、ここで注意しておきたいのは「システム」はただ形式的・無機質なものばかりではないということである。私たちの日常生活の多くの行動は「システム」に基づいていようとも、私たちの内面では他者への配慮や思いやりの感情を感じている。しかしこれらも円滑な日常生活のための合理性の内にあるという意味では私は「システム」として扱っている。
愛と「システム」は現実には相反するものではなく相補的な関係にある。「システム」は当然私たちが生きていくうえでなくてはならないものである。私たちは無秩序の状態を長く生きていくことはできない。しかし「システム」は完璧なものではない。時には外部からあるいは内部の要因から「システム」は機能不全に陥る。また「システム」は人間の生活の実情や感情をすべて汲み取って機能しているわけではない。あくまでも「システム」の目的は世界の安定であり、そこでは人間は自己保存を義務付けられた自動機械に過ぎない。愛の行為とは不合理で過剰さを含んだ「システム」から逸脱した行為であるが、上記のシステムの欠陥を補う力をもっている。愛の行為は「システム」から抜け落ちたものを救済する働きがあるのである。(ただしあまりに「システム」から逸脱しすぎたり、逸脱が長期間に及ぶと「死」に近づくことになる。)
「システム」は究極的には交換や反復不可能なものを恰もそれが可能であるかのように見せかける働きをする。その疑似的な交換・反復のなかで私たちの「個」の存在の重さは欠落してしまう。私たちは普段「システム」の自動機械として振る舞いそのことに鈍感である。しかし絶対的自由と責任に基づく愛の行為は私がまさに「個」の存在であること、そして行為を受け取る相手も同様に「個」の存在であることを思い出させる。愛の行為のもつ人を巻き込んでいく力は「システム」による偶然的で交換可能な人間関係を必然的で交換不可能なものに変えていく。
最後に前回、前々回の内容を愛と「システム」の概念で整理してみたいと思う。私は過去に「オタク的恋愛」と「市場的恋愛」、そして恋に落ちることについてまとめた。「オタク的恋愛」と「市場的恋愛」は「システム」に過剰に依存することによって成り立つ恋愛である。一方で恋に落ちることは「システム」をすっ飛ばして愛の行為に向かおうとする恋愛である。ではそれぞれについて詳述していく。
オタク的恋愛ではコンテンツへの愛、情熱はほとんど画一的方法で表現される。オタクたちの愛でる対象となるコンテンツは市場から供給されオタクたちはその消費者である。そこではコンテンツへの愛は商品の購入という形で表現されることになる。また彼らのネット上に書き込むコメントの語彙は独特で且つ定型的なものである。たしかに私はオタクたちの情熱が偽りのものだとは思わないし、その画一性は効率的な感情表現という意味では洗練されたものであると言える。しかしオタクたちの行動は匿名性を志向し、「オタク」はどのように振舞うかを参照することによってこの「私」を消し去ろうとする。
オタク的恋愛では市場から供給されるコンテンツやそれを愛でるオタクたちも交換可能なものでしかない。彼らは匿名的でいつでも切断可能な関係性に留まることによって得られる気楽さを享受している。しかしそのような関係性は自ら責任を引き受けるという重荷を背負うことは回避できても、自らの実存的欲求は永遠に満たされることはない。
市場的恋愛の話に移ろう。市場的恋愛とは主に婚活のような、企業などが提供するサービスによって日常では不可能なほどの膨大な数の人を比較検討することができる環境のなかで行われる恋愛である。そこでのプレイヤーは自らを商品として自覚し、その価値を高めるよう動機づけられる。同時にほかのプレイヤーに対しても同じような視線を向けることになる。そこで差し当たっても問題になるのは自分と相手がどのような属性やスキルをもっているかということになる。
よって市場的恋愛は就活のようなものである。就活生は自らの選好と同時に自らのもっている属性・スキル考慮して企業を選ぶ。この時選ばれるのは身の丈にあっているか、少し上の企業だろう。そして面接のときにどの企業に対しても「御社が第一志望」と答えながら、裏では冷静に企業の比較と順位付けが行われている。市場的恋愛ではその市場的環境によってプレイヤーは必然的にこのような思考を行うことになる。
市場的恋愛では企業などが提供する「システム」によって円滑に、安全に恋愛を始めることができる。そしてプレイヤーたちのパートナー選びに失敗したくない、最良のパートナーを選びたいという願望を叶えてくれるかのように見える。しかし、そこでは生身の人間に対して冷静な比較のまなざしを向け、そして向けられることになる。そして自分の希望に近い相手を見つけたとしても、環境が「もしかしたらまだいい相手が見つかるかもしれない」という考えを抱かせる。
このように市場的恋愛ではプレイヤーたちは「システム」によってお互いを交換可能な存在として扱い、扱われることになる。これが現実の労働市場の話なら仕方のないことだが、恋愛や結婚の相手を見つける手段としては間違っているように感じられる。
しかし私は、市場的恋愛を完全に否定するつもりはない。これまでで述べたように愛の行為は「システム」の欠陥を補う働きをする。だから市場的恋愛において最初は交換可能な関係性でも、愛の行為によって交換不可能なものに変質させることは可能であると考える。もちろんプレイヤーがお互いに「もっているもの」にばかり目を奪われれば愛の行為は行われないか、行われたとしても気付かれることはないだろう。つまり市場的恋愛では「システム」によって始まった恋愛をいかに愛の行為で必然的なものにしていくかが重要になるだろう。
最後に恋に落ちることについての話に移ろう。恋に落ちるとは恋愛に入っていくうえで前提となると考えられているものをすっ飛ばして相手のことを好きになることである。そして場合によっては互いの現状の関係性を度外視して一気に愛の行為へと向かおうとすることもある(『街の灯』の浮浪者がそうであった)。
恋に落ちるということそのものが「システム」からの逸脱であるといえる。恋に落ちるとはいきなり稲妻に打たれるようなものであり、そして日常生活の円滑な進行が阻害される。世界の見え方が変わり、ものごとの優先順位が変わる。
恋に落ちたものは何とかこの逸脱状態から安定した状態にもっていこうと考える。すなわち相手と恋人どうしになり恋愛を始めることによって自らの精神と相手との関係性に安定をもたらそうとする。恋愛も文化的産物である以上ある種の「システム」として考えることができる。
しかしそもそも恋に落ちることと相手と恋愛が始まること(ここでは互いに好きどうしになるという意味である)は必然的なつながりがあるわけではない。恋に落ちるとはこちらが勝手に稲妻に打たれただけであり、相手から見れば知ったこっちゃない話である。しかしそれでも、もしかしたら恋愛が始まるかもしれない。日常の正常な進行ではありえないことが愛の行為によっておこるかもしれない。恋に落ちたものはこの奇跡を信じるしかない。
本当に最後のまとめである。オタク的恋愛は「システム」のもたらす疑似的な万能感や匿名的な気楽さに安住したものである。市場的恋愛では「システム」を利用することで同様に疑似的な万能感を味わいながらも皆が比較のまなざしを向け、向けられる。ただし、パートナーを見つけた後は交換不可能な関係性を築くことによって「システム」の弊害を乗り越えることができる。恋に落ちることはそれ自体システムからの逸脱である。恋に落ちたものは恋愛という「システム」を目指し安定性を回復しようとするが実際のところその望みは薄い。
本稿で改めて整理しなおした三つの恋愛はどれも愛と「システム」のバランスが悪い。以前はオタク的恋愛・市場的恋愛と恋に落ちることをはっきりと分けようとしたが、現在ではこれらに本質的な違いはあるのかどうか自分の中で揺らいでいる。私は前回自然に仲良くなり自然に恋愛が始まっていくようなタイプの恋愛は想像がつかないと書いた。まさにそのようなタイプの恋愛こそが愛と「システム」のバランスのいい恋愛なのではないだろうか。三つの恋愛は愛と「システム」を調和させることができない、あるいは失敗したことからきているのではないだろうか。
理論的な検討は今回で終える。次回はこれまでの内容を踏まえたうえで、ではどうすべきなのかを考えていきたいと思う(依然抽象的な話になると思う)。
前回の投稿から大きく日にちが開いてしまいました。申し訳ないです。冗長な文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
7月20日(土)に安達宏昭さんをお招きし、物事をどのように捉え、考え、生きてゆけばいいのかを伝えていただきました。
5月25日にお招きした際は、安達さん本人の生い立ちを追っていいき、将来の自分の道の切り開き方について伝えていただきました。今回は、タイトルこそ抽象的ですが、具体的には他者との関わり方、自分との向き合い方について学ぶというものでした。今回実践したのは、ネガティブなものをポジティブなものに変換することでした。例えば、「怒りっぽい」→「情熱的だ」「人見知り」→「人との距離感を適切に測れる」など。安達さんが言うには「日本語はネガティブな表現であらわされることが多い」とのことです。これには思わずうなずきましたし、実際、このポジティブ変換は思っていた以上に難しかったです。同じ物事でも、捉え方には二面性がある、ということを痛感しました。
また、「気づく」ことの重要性を説いていただきました。現在、メジャーリーグで活躍中の大谷翔平選手の、高校当時の目標を書き綴った、通称「9マスシート」を見せていただきました。最終目標である「ドラフト1位」を達成するために必要なことを周りに書き、そしてそれらを達成するために必要なことをさらに周りに書いていくものでした。こうして書き綴っていくことで、自分のことが見えてくるというのです。私も含め、意外と自分のことはよくわかっていないものです。こうして字におこすと様々なことに気づくことができるかもしれません。
こうした「気づき」を大事にしてほしいと強く主張されました。皆さんも一度「9マスシート」と検索し、作ってみてはいかがでしょうか。
安達宏昭さん、お忙しい中貴重なお話をしていただきありがとうございました。
12月15日、別日での実施が終わり、これでようやく長い大掃除が終了しました。当日が11月30日、その準備を始めたのが11月24日なので一ヶ月弱続いたことになります。この長い期間、僕は数々の問題行動に直面しました。参加すると言っておきながら当日すっぽかす人、連絡が滞り中々予定を決めさせない人、要望に沿って別日を設定したのに逃亡し、やらずに済まそうとする人…。業を煮やしながらもその都度対処しましたが、おかげで人は上からどう評価されているかをよく知ることができました。他に言いたいことはたくさんありますが、愚痴はこのくらいにしておきます。
さて、今回僕はかなり入念に準備したつもりでした。まず、(奥さんや生活委員にも手伝ってもらいながらですが)寮にあるすべての洗剤を種類と用途ごとに細かく分別し、足りないものは買い出しに行き、分担表を一から作り直して既存のものでは不十分だった部分を多く補いました。前回が余りに準備不足だったのを反省して間違いが起こらないよう手配したつもりだったのですが、それでも当日になってひとつだけ不備が判明しました。換気扇にかけるカヴァーが、僕が換気扇の数を誤認していたために足りなくなってしまったのです。急いでコーナンまで買い出しに行き手に入れてきたことで事なきを得ましたが、これも前回がちゃんとした経験になっていなかったから起きたことです。いわゆる“PDCA(Plan「計画」―Do「実行」―Check「評価」―Action「改善」)”のサイクルとか言うやつでしょうか、このことを常に意識しないと仕事は改善しませんね。そうしないと“PDCA(Panic「混乱」―Doom「破滅」―Chaos「混沌」―Apocalypse「世紀末」)”(=前回の僕の状態)になってしまいます。冗談はさておき、来年もう一回だけ大掃除があるので、今回までの失敗を活かして完璧な仕事を目指したいと思います。
第二回恋に落ちるとはいかなる経験か
賀戸佑丞
本章では恋に落ちるという経験はどのような特徴をもっているかを詳述していく。読者の中には恋人のいたことのない筆者にそんなことができるのか、野暮なことはするなと思う人もいるだろう。だが安心していただきたい。本章の記述はジジェクの著作中の断片をまとめ、多少私の想像を補うことで成立している。個人的には抽象的であるが、恋に落ちるという現象の本質を捉えたものになっているのではないかと思う。では早速本題に入ってみよう。
○「恋に落ちる」ことの特徴
恋に落ちるとはいかなる経験なのか。それは上述の二つの恋愛とは異なったものである。その特徴は特に市場化した恋愛の特徴をきれいに反転させたものだと考えている。一つずつ確認していこう。
まず一つ目が恋に落ちる者に選択の余地はないという点である。いや厳密にいえば誰に恋するかという選択はなされている。しかしその選択は「絶対に現在に訪れず、つねに/すでになされてしまっている」ものである。つまり恋に落ちる相手は自由選択で選ばれているが本人の意識の流れのなかでは自覚的に選択するような機会はないのである。恋に落ちた者にとっては自らの幻想空間の中の「理想の恋人」の椅子に勝手に座られるようなものである。彼/彼女は最初この事態をうまく呑み込めないが、少し時間がたてばとんでもないことが起こっていることに気付く。このような相手は人生で一度きりしか巡り合えないのではないかと感じる。
ふたつ目は恋に落ちる時に、相手のポジティブな特性の積み上げの結果として相手を好きになるわけではないという点である。恋に落ちるとは自分と異性との理想的な関係という幻想を現実化するうえでぴったりの「役者」を発見するようなものである。この役者の条件は一般に「恋人に求めるもの」という形で語られるようなはっきりとしたものではなく、きわめてあいまいで言語化困難である。それでもひとつ言えそうなことは、それが恋に落ちる者の過去の経験に関係しているということである。すなわちその役者は過去の人間関係(例えば異性の親など)や自分が失ってしまったもの、手に入らなかったものを連想させるのであることが多い。この意味において恋に落ちるとは反復なのだ。恋に落ちる時この条件に無自覚である場合が多いため自分が恋に落ちた時に初めて自分が本当に恋人の条件として求めているものが何なのかを知ったりする。
役者の条件と直接関係ないような特性についてはポジティブなものであれネガティブなものであれ相対的にその重要度は低くなる。しかし役者の条件に関わってくるような特性については過剰に反応する。条件に適合している特性については過大評価しがちである。また条件から逸脱するような特性については、一般にポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと不愉快な感情を掻き立てられる。一度自分が理想の恋人という役を与えた相手がこのような特性をもっていたら、最初はそれを見て見ぬふりをしようとする。しかし遅かれ早かれ自分が今まで相手に対して自分の幻想を投影していたこと、そして相手は自分が思っていたような役者などでなく固有の人格をもった存在であるという事実に直面する。ここにおいて恋に落ちたものの取りうる手段は①幻想のシナリオを逸脱しつつある劇を放棄する。②終わりのシナリオを付け加えて劇をきれいに終わらす。③幻想のシナリオ自体を修正する、である。これらは現実にはどれか一つが選択されるというより自分の幻想と実際の相手とのギャップの程度によって使い分けられるだろう。これらの手段についてはのちに再び触れる。
みっつ目は恋に落ちた時点では等価交換は成り立たないという点である。これはもちろん経験的に好きになった相手が自分にとって不相応なほど魅力的であることが多いということでもある。しかしここで言いたいのはこの現象が構造的に発生するということである。恋に落ちた者は自分の幻想の中の理想の恋人の条件を満たした人物を見つければ何とかして相手をその恋人の位置に引き込もうとする。そのときに恋に落ちた側はいちいち等価交換が成り立っているのかどうかなどと考えない。相手に替えは利かず、この人でなければ意味がないとしか思えないからだ。事態は切迫し、場合によっては自分が是が非でも変わらなければならないことを自覚する。かつてなんとなく恋人が欲しいとか異性からの承認が欲しいと考えていたことが間抜けだったと思えてくる。相手の一挙手一投足に対し一喜一憂しナイーブになる。恋する者はこの試練をくぐり抜けなければならないのである。
○恋に落ちることの負の側面
ここまで恋に落ちることをどちらかと言えばロマンチックなものとして、好意的な記述してきたが当然負の側面も併せもっている。しかしこの側面を避けようとすれば恋に落ちることの実質的な部分は失われてしまう。いいとこ取りはできないのである。では負の側面と考えられる特徴を挙げていこうと思う。
まず恋に落ちるという経験は恋に落ちた側にとっても相手にとっても暴力的だということである。ジジェクの言葉を借りれば、主体にとって恋に落ちることとは「とんでもない不運」であり、「恐るべき寄生体」に取り憑かれることであり、「全てのささやかな楽しみを台無しにする永続化された緊急事態」である。また相手にとっても恋されるという経験とは熱烈な好意を向けられる立場に立たされることであり、それ自体が外傷的である。仮に最終的にそのことを好意的に思うとしても最初は「何か猥褻で闖入的なものが押し付けられた」と感じ困惑する(注1)。つまり程度の差こそあれ、相手に好意を告げるという行為自体がハラスメント的なのである。
次に挙げたい負の側面は、恋に落ちてもその後の関係はうまくいかない事が多いという点である。これの意味するところの一つは、こちらが好意をもっていても相手が好意を持っている、あるいはこれからもつ可能性は低いということである(注2)。二つ目の意味は相手が自分の想像と違っていた、思い違いだったということが多いということである。上述の通り恋に落ちるという経験は自らのもつ幻想の中に相手を理想の異性という役で組み込むことである。よって相手を理想の異性たらしめていた諸条件が失われたりして、もはや理想の異性の役を割り当てられなくなってしまうと急速に熱は冷めていくことになる。
(注1)また好意を向けられることに伴う困惑は、自分の理解するところの私と相手に熱烈な好意を起こさせる私の間のギャップに対する困惑でもある。
(注2)私は少なくない数のカップルが日常生活の中で自然にお互いに好意が湧き、ある程度相手が自分に好意を持っていることが確信できる段階で正式に付き合い始めるという手順を踏んでいるという事実に驚かずにいられない。実際にそのようなプロセスがあることは想像できるが具体的にどうしたらそんなことが起こるのか見当がつかないのである。
○負の側面の克服
以上の負の側面は克服できるものだろうか。私は恋愛からその暴力性を完全に取り除くことは不可能であると考えている。もちろん相手に対する事前に予測できる暴力性については最大限の配慮がなされるべきである。しかし潜在的なものも含めてあらゆる暴力性を排除することは不可能であるし、それをしようとすれば恋愛はしないほうがいいということになる。よって負の側面の克服は無理である。
一方で私は恋に落ちたその後に伴う難しさについては克服可能であると考えている。ではどのような方法があるか説明していこう。まず相手が自分にとくに好意をもっていないという状況であるが、これは各自で頑張るしかない。探せばいくらでもマニュアルみたいなものが見つかるだろうが、正解はない。個人的には相手のことをよく観察することが大事であることは間違いなく言えるだろうと思う。(注1)
次に相手が自分の思うような人物でなくて情熱が覚めてしまうという場面に対する対処法を述べたいと思うこれには二つの方法を考えた。
一つ目はドラマや映画でよく使われる恋愛や愛の美しさを永遠にするための手法である。つまり相手への情熱が最も盛り上がった瞬間や二人の心が通じあったように見えた瞬間に、どちらかが物語から退場するという手法である。これによって相手への思いや恋はその美しさのまま記憶に残すことができる。もし相手への熱が冷めたり、失望したりすれば恋そのものが消滅してしまう。それよりは恋の相手自体を失ってしまうほうがましなのである(注2)。この方法は自分で意図的に行えば意味がなく非現実的なものである(注3)。
次にもう一つの方法というより相手への失望という事態をうまく乗り切るための心構えのようなものを述べたいと思う。その心構えとは「我々は真実を直接知ることはできず、真実に到達するためには誤認が必要である」ということである。恋に落ちた者は遅かれ早かれ、相手が自分の考えていたような理想の異性でないことに気付くことになる。この時に多少なりとも相手への情熱は冷めてしまうわけだが、しかしこの誤認は相手の特性をよく知るうえで必要な誤認なのである。なぜ誤認抜きで直接真の特性を知ることができないのかをあえて観光を例に説明してみよう。我々はどこかに観光する際にその土地に対し事前に何らかのイメージを持っている。そして実際に観光してみた時にその観光地の実情は事前のイメージとは異なることに気付く。重要なのはこのプロセスにおいて事前のイメージ抜きに直接実情を知るということは実際には起こりえないということである。事前にイメージをもつこと、あるいは強い興味をもつことがなければ、真実を知るところまでたどりつけないのである。だから単に失望してしまうのではなく相手の真の特性を知る機会を得たのだとポジティブに捉え、相手の簡単に表面に出てこないような素晴らしい特質を発見できるように粘り強くアプローチすべきである。(もちろん結果論として早く諦めるべきだったという場合はあると思うが。)
そしてもう一つ心に留めておきたいのは「他者の中に見つけた欠点の中に我々はそれとは知らずに、自分自身の主観的立場の虚偽性を見出す」ということである。本章の流れで言えば、相手の中の特性を受け入れがたいと感じるのは、相手を自分の幻想を通して見ているがためである。このような場面は自身の主観性、自分が相手に投影している幻想を反省的にとらえるチャンスである。これによって自らの幻想を組み替えることが可能になり、結果として当初許容することが難しかった相手の特質を受け入れることができるようになるかもしれない。
(注1)私が勝手に要約したジジェクによるアドバイスは「お互いに見つめ合っていても好意は生まれない。好意とは本質的に副産物であり、それ自体を目的にすることはできない。幸せな恋愛関係を手にするためには第3の共通する原因をもつ必要がある。」
(注2)ジジェク曰く、憂鬱であるとは欲望の対象はあるけれど欲望そのものを失ってしまうことである。つまり欲望された対象を欲望させる何かを失うということである。
(注3)しかしこの方法が現実には全くとられていないというわけではない。いわば無意識的にこのような方法がとられることがある。例えば本人にそのつもりがなくても相手への失望を予期したり、相手は特に自分に関心がないという事実に直面するのを回避するために疎遠になるような行動(あるいは非行動)をとるような場面が考えられる。
○別の仕方で考える
本稿の目的は「恋に落ちる」という経験を肯定することである。今回の記事は「恋に落ちる」とはどのような特徴をもった経験なのかを記述してきたが、どうも肯定できるところまではいってないように思う。なので「恋に落ちる」という経験を別の切り口で語りたいと思う。
そもそも私が「恋に落ちる」という言葉で想定している事態は具体的には意図しない形で自分の見える世界が変わってしまうような、そして関係性の中にどうしようもなく巻き込まれてしまうような経験である。すなわち能動と受動の境界をはっきり引くことができないような経験である。一般に流通している言葉で言えば「恋は盲目」が一番しっくりくる。
私は「恋に落ちて」見える世界が変わるとはその人の固有の意味世界が一変することだと考えている。では意味世界が一変するとはどのようなものなのか。これを説明するためにジジェクのイデオロギー闘争の説明を参照したい。ジジェクによるとイデオロギー闘争とは言葉の意味を確定させる特権的な地位をどのイデオロギーが占めるのかという闘争である。具体例を示そう。「自由」が意味することは保守側から見るかリベラル側から見るかで変わる。すなわち保守側から見れば「自由」とは国家が介入しないことであり、リベラル側からみれば国家が積極的に再分配を行うことで達成されるものである。ここで我々にとって大事なのは特権的な地位を占めるものが変われば意味世界が一変してしまうということである。
まさに「恋に落ちる」ということはこの特権的な地位を恋愛が占めるということではないだろうか。日々の行動の意味が変わってしまう。それまで無頓着だった服装に気を配る。あの子との会話での話のネタを拾うことを意識して生活する。あの子からみて好ましい人間になれるように努力するetc...。恋に落ちた者が活動的になるのは新たな意味世界を手に入れたからである。
もし恋愛が終わってしまえば意味世界は再びもとに戻る。しかし人にとって一度与えられた、見出された意味を失ってしまうことは耐え難い苦痛である。あらゆる意味が失われてしまったように見え、後に残るのは抜け殻の世界である(注1)。恋に落ちている者はそのことを予感しているため難しい状況でもその恋を自分から手放すことができない。
(注1)最初から何もない場所には何もない。一度でも何かが存在し、そして失われたならばそこに残るのは欠落である。
次に関係性に巻き込まれるとはどのような状態かを詳しく説明していきたい。ここでは題材として映画『レオン』(1994)を取り上げる。この映画は一般的に評価が高く、個人的にも好きな映画なのでぜひ視聴をおすすめしたい作品である。この作品の内容を一言でいうと、これまで根無し草のように生きてきた殺し屋が少女との交流の中で生きる望みを見出す話である。(殺し屋と少女の関係は恋愛ではないが、殺し屋の側に意味世界の変容と関係への巻き込まれが起こっているためここで扱うのは適切であると考える)。しかしこの映画を別の見方をすると、魔性の女に人生を狂わされた男の話ということもできる。殺し屋は少女のためにやった勇み足が原因で最後には死に、もし少女と出会わなければ淡々と殺し屋稼業を続けていたであろうからである。我々はこの映画で描かれている“美しい愛”に素直に感動するだけでなく、関係性に巻き込まれるということの両義性を考えねばならない。
もちろん現実世界でこのような状況はそうそうないだろう。関係に巻き込まれ自らの命を危険にさらしてでも生きる望みをとるか、それとも生きる望みが手に入らなくても関係に巻き込まれない安全な生活をとるかという選択はあまりに極端な考え方である。しかし最初から安全な道を優先し関係性に巻き込まれることを避けようという態度でいれば生きる望みと言えるような強い欲望をもてるようなことはないのではないだろうか。死ぬとまではいかなくても予測不可能なリスクを引き受け関係性の中に身を投じなければ生きる望み、生きているという感覚は得られないのではないだろうか。
人が恋に落ちれば固有の意味世界が一変する。さらに関係が深まれば自分の欲望と相手の欲望の区別はあいまいになる。だから人は恋に落ちれば日々の生活が生き生きと感じられ活動的になるのだが、その反面常識的に考えれば不可解な行動をとる可能性が高まる。もちろんどのような選択をするかは個人の考え方の問題であろう。しかし私は、生きる望みが欲しいのならば、生きている実感が欲しいのならば深い関係の中に身を投じるしかないと考えている。これは必ずしも恋に落ちることが前提の話ではない。これはより広く愛の領域の問題である。次回は愛の分析に進もうと考えている。
次回につづく…
なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)
賀戸佑丞
本記事は当初全文を一度に投稿する予定であったが、予想を超えてあまりに長くそしていつまでも書き終えることができないので複数回に分けて投稿することにした。予定では全4回くらいを考えているがどうなるかまだわからない。なるべく週一のペースで投稿できるよう努力したいと思う。
第1回 恋に落ちなくなった日本人
はじめに
本稿のテーマは恋愛である。ひいては愛するということである。読者の中にはそのようなテーマを論じるのに筆者は不適格であると感じる方もいるであろう。自分でもそう思う。私には恋人がいたことがない。このテーマの文章を書くことを私は何度も逡巡したが、結局今一番文章として書きだして体系的に自分の考えを整理したいと思うテーマはこれだった。自分の関心のないテーマについては自分にとって面白いと思えるようなものは書けないので仕方ない。本稿は理論と概念と想像によって記述されていることをはじめに断っておく。
この文章は個人的な趣味で書いているが一応建前として本稿の意義を説明しておこう。フロム曰く、人間にとって愛するという行為は先天的に身についている能力ではなく、後天的に学習していくものである。つまり人は各々の生活の中での活動やフィクションから愛するとはどういうことなのか、自分ならどうするかということを学んでいくことになる。しかし学習とはこのような具体的、経験的なものからのみ行われればいいのだろうか。時には立ち止まって抽象的にじっくり考えてみることも必要なんじゃないか。そしてそれが恋愛や愛についての本質的な理解、ひいてはよく生きることにつながるのではないか。本稿はこのような問題について読者が考えるきっかけになればと思っている。
本稿のねらいと内容を簡単に説明しておく。本稿の一番のねらいは「現代の日本人は(日常生活の中で)恋に落ちることを避けるようになったが、しかし恋に落ちることは素晴らしい経験なのだ。」ということを主張することにある。内容については、まず現在日本社会に広がりつつある2つのタイプの恋愛、すなわちキャラやアイドルに恋するオタク的恋愛と、婚活など(注1)においてその論理が剥き出しになる市場化した恋愛についてその社会的背景も含めて論じる。次にこの2つの恋愛とは異なる「恋に落ちる」という現象について論じ、その意義を強調する。そして「恋に落ちる」ことのネガティブな側面とその克服について論じる。最後に愛とそれのもつ両義性について論じ、そして全体のまとめに入りたいと考えている。なお本稿ではその発想源の多くをフランスの精神分析家J.ラカン(1901~81)とスロヴェニアの哲学者S.ジジェク(1949~)に拠っていることをあらかじめ断っておく。
(注1)現在の日本における結婚は9割が恋愛結婚であり、見合い結婚は約5%である。つまり結婚の前提として恋愛することが必要になっている。これはなぜなのだろうか。ラカンのテーゼに「性的関係は存在しない」というものがある。これは男女の互いの持つ幻想は常に食い違うことを意味する。この食い違いを克服するためには両者のもつ幻想を包括する物語が必要になってくる。そこで登場してくるのは恋愛と愛の物語であると考えられる。婚活は市場が提供する見合いの場と言えると思うのだが、そこで重要なのは自由恋愛という見せかけが維持されることなのである。ちなみに見合い結婚とはイエの再生産の物語である。
第一章 オタク的恋愛と市場化した恋愛
本章では日本で存在感を増してきている2つの恋愛、すなわちオタク的恋愛と市場化した恋愛について説明していくが、その前に統計データ(平成25年度版厚生労働白書)を基に日本人の恋愛事情を簡単に確認しておく。「現在婚約者または恋人がいる」人の割合は2005年で32.1%、2010年で24.6%であり、恋人のいる人が3人に1人から4人に1人に減少している。交際している人がいない人の中で交際を望む人と望まない人の割合は男女とも約半々である。交際を望まない人の理由としては男女ともに「自分の趣味に力を入れたい」「恋愛が面倒」と答える人の割合が高くなっている。交際相手を持たない人の交際上での不安としては、「異性に対して魅力がないのではないか」が男女ともトップであり、以下ではどのように恋愛が始まり、進んでいくのかがわからないという主旨の項目が並んでいる。以上を乱暴に要約すると、「現在恋人のいる人は減ってきている。そして恋人のいない人たちは、恋人は欲しいけど自分に自信ないし、そもそも恋愛の仕方がわからない派と恋愛は面倒、時間の無駄派に分かれている。」ということになる。
〇オタク的恋愛
こういった認識を踏まえたうえで本題に入っていきたい。まずオタク的恋愛について説明していく。これはオタクたちが二次元キャラクターやアイドルへ一方的に恋愛感情をもつことである(彼らの言葉で言えば「萌え」や「推し」)。この恋愛の特徴はオタクたちには万能感と不能感が混在していることである。彼らは一方的に対象をまなざし、自分の好みのキャラやアイドルを品定めし、恋愛を始める。そこでの恋愛は現実の恋愛では発生するであろう様々な責任やリスクを引き受ける可能性が最初から排除されている。彼らは同時に複数のキャラやアイドルと恋愛できるし、飽きてくればいつでも降りることができる。
しかしこのような万能感の裏返しとして彼らは圧倒的に不能でもある。彼らはキャラやアイドルから「彼ら自身」として見つめ返されることはない。どんな影響も与えることができない(仮にできたように見えても相手から見れば誰でもよかった/できたことである)。当たり前のことだがオタクたちのとキャラやアイドルの関係は一方通行であり、人格同士の関係ではない。(注1)
ここで注意しておきたいのは、この不能感がオタクたちの主観においてどのように機能しているかという点である。実は彼らは不能であるがゆえに”真摯“に恋愛することができるのである。どういうことかというと無力で責任がないためにキレイゴトが言えるということである。オタクたちは決して手の届かないキャラやアイドルを素直に褒めたたえ、そして愛を語る。そうすることで対象は崇高な存在へと高められ、恋愛は精神性の高い美しいものとなる。
このように恋愛の主体としてのオタクは万能感と不能感の分裂を抱えており、その主体性は貧しいものである(注2)。彼らの語る愛は時に美しいが(そして個人的にはそこまで熱中できるものがあることを羨ましく思うときもあるのだが)、それは自らの不能性の上に成立している。彼らは現実から遊離した過剰なロマン主義者といえるだろう。
(注1)オタクたちに対し彼らの信奉するものが虚構であることをいくら指摘しても彼らは自らの考えを改めることはなく、それどころか彼らの信奉は無傷である。なぜならオタクとはイデオロギーだからである。ジジェクによるとイデオロギーにおいて重要なのはその中身、教義ではなく「人を一定方向に歩き続けさせ、心がそうと決めたらどんな疑わしい意見にも従う」という形式のほうである。その形式に自らを従わせること自体が主体に享楽をもたらすのである。つまり話を戻すと、自分はオタクであるという認識は一つのイデオロギーへの信奉であり、オタクたちは個々のコンテンツからというより、自らの行動が一連のオタク的身振りに方向づけられることから享楽を得ているのである。(とはいえやはりコンテンツから得られるフェティッシュな快楽も無視できない)
そしてイデオロギーにとってもう一つ重要な点はイデオロギーの本来の目的(形式への服従)は主体からは隠ぺいされていなければならず、もし主体がこの目的に気づいてしまえば、享楽は得られなくなってしまうという点である。よってイデオロギー批判の最良の方法は、イデオロギーの内容は偶然的に選ばれたものであり、彼らにとって重要なのはそのイデオロギー的形式なのだという事実を暴露してしまうことである。(以上のことを踏まえれば我々の世界はイデオロギーにあふれていることに気づく。あくまでオタクとは若者を中心に大きな求心力のあるイデオロギーのひとつと認識すべきだろう。)
(注2)注意しておきたいのは、これはオタクたちが現実の恋愛でもこのような分裂を抱えていることを意味しないということである。東浩紀氏によると「オタクたちの愛するコンテンツは現実にはなにも指示しないし、彼らの現実の生活となにも関係しない。」(「テーマパーク化する地球」『テーマパーク化する地球』2019)。オタクたちが虚構に対しどれだけ倒錯的な愛を向けているように見えても、現実では「正常な」性規範を備えている場合がほとんどである。
〇市場化した恋愛
次に現代の過剰に現実的な恋愛、市場化した恋愛について説明していく。ここでの市場化とは、ネット上であれ、現実世界であれ日常生活の中では出会うことが不可能なほどの数の候補者の中から自らの恋人を選ぶ/選ばれることを可能にするアーキテクチャが整備されたことと、そのことによる意識の変化、すなわち自らを恋愛市場を流通する商品とみなすようになることを指す。では市場化した恋愛がどのような特徴をもつのかを説明したいと思う。
ひとつ目は主体の選択の余地が大きいことである。例えば市場への入退場は個人の自由である。また膨大な候補者の中から自分の重視する特性を持つ相手を絞り込んで恋人を選ぶことができる。
ふたつ目は相手の評価がポジティブな特性の列挙による加算方式によってなされるということである。相手のことを知るとは相手が列挙する特性を知るということである。すべての言動が評価の視線に晒されている。他者からみて好ましいと思える特性をひとつでも多く身につけるよう動機づけられる。
みっつ目は恋人を選ぶ/選ばれる際に等価交換が成り立つかどうかが重視されるということである。自らの市場的価値を冷静に見極め、なるべく等価交換が成り立つ(またあわよくば自らが剰余価値を獲得できるように)相手を探さなければならない。(注1)
(注1)ここまで特徴を並べてみて、これらの特徴は市場化した恋愛に固有のものではなく、昔から恋愛にはこのような側面が存在していたのではと考えるようになった。しかしそれでもこのような側面が誰の目にも明らかになってしまっていることが市場化した恋愛の特異性であるといえるだろう。
〇2つの恋愛の社会的背景
これで一応2つの説明が終わったことになる。次にこの二つの恋愛が現在の日本社会で存在感を増している背景について述べたいと思う。この2つに共通の背景などあるのだろうか。片や現実離れした過剰にロマン主義的な恋愛であり、片や過剰に現実的なリアリズム的恋愛である。一見互いに逆方向のベクトルを向いているように見えるが、実はある共通の特徴を有しているのである。それは自分にとって予想外な波風が立つことを恐れること、そして傷つくことを回避しようとすることである(注1)。
詳しく説明していこう。まず現代の「合理的な」人々の一部は「人生の最適化」願望を抱いているという点を挙げたい。どうすれば効率的に日常生活をひいては人生を送ることができるかが中心的関心となっている(注2)。よって非効率的なものは生活からどんどん排除されていくことになるのだが、彼らにとって現実の恋愛も非効率的なものである。彼らはまったく恋愛を望んでいないわけではないが、その金銭的、時間的、精神的コストを考えると割に合わないものであり、その分趣味、学業、仕事に注力したほうがましだと考えている(注3)。
次に挙げたいのが現代人は他者との距離感に対して非常に敏感になっているという点である。タバコの受動喫煙やハラスメントは言わずもがなだが、善意によるものであっても単純に他者の接近は抵抗感や不快感を生じさせる危険性があるのである。よって他者からはなるべく一定の距離をとろうとするし、自分が行動する場面においても相手がどう感じるかについて敏感にならざるを得ない。
以上のことを踏まえると現在の日本で(恋に落ちて)恋愛することが難しくなっていることが理解できる。「合理的に」考えれば恋愛はコスパが悪い。もし結婚相手が欲しければ婚活で直接結婚相手を選んだほうがコスパはいい。さらに人々は他者から傷つけられることに敏感になっている。人に熱烈な好意を向けることは相手を困惑させずにはいられないし、時に暴力的ですらある。断られればもちろん大きく落胆することになる。本気で恋愛すれば双方無傷ではいられない。
しかしである。では我々はなるべく予想外な波風の少ない、傷つく可能性の少ない上述した2つの恋愛で満足すべきなのだろうか。果たしてそのようなリスクの排除された恋愛は恋愛と呼べるのだろうか。それはまるでアルコール抜きのビールなのではないだろうか。まさに危険であるが本質的である要素が除かれたものなのではないか。私はあくまでも恋に落ちることで始まる恋愛を志向したい。私は恋愛によって酔うことを求めるのである。
次回につづく…
(注1)ラカンによると父権的権威主義が衰退し資本の論理が支配する現代では「去勢」が排除されている。「去勢」とはここでは自らのナルシシズム的万能感の喪失、あるいはナルシシズム的快楽の追求の制限を意味する。「去勢」は自分で意図的に行うことはできず、社会の側から強制されることで達成される。しかし現代ではもはや社会は個人に「去勢」を強制しない。資本主義的市場は人々を理想的な自分を目指すようにせき立てる。「あなたが望みさえすれば理想的なあなたになることができますよ、いくらでも楽しむことができますよ。」というわけである。さらにネット・SNSがこの傾向に拍車を掛けている。現代はいつまでもナルシシズム的快楽を追求することが可能な、むしろ推奨されている時代なのだ。
しかし我々にとって重要なことは人を愛するためには自らが「去勢」されていなければならないということである。自らの「欠如」を認め自分には他者が必要であることを知らなければならないのである。本章で述べた2つの恋愛はともに自らのナルシシズムの傷つきを回避し、ナルシシズム的快楽の追求を妨げない、あるいは助長するものではないだろうか。
(注2)別の言い方をすれば「快と不快のバランスシートの快のプラスをどれだけ増やせるかに中心的関心がある」である。
(注3)そんな彼らの中でも将来的に結婚したいと考えている人は多い。しかし「はじめに」で述べたように、恋愛する能力・愛する能力は学習によって身につけるものである。結婚相手をいきなり探そうとしたり、異性と持続的な関係を築こうとしても苦労することは目に見えており、結果として大きな回り道をすることになるかもしれない。そのようなリスクについても考えておくべきであろう。
307号室の吉岡です。
5月26日に「先輩から元気をもらう会」という会において、株式会社創晶の代表取締役社長の安達宏昭さんをお招きし、ご講演いただきました。その感想を書かせていただきます。
こちらの準備不足のため、拙い文章になってしまうことをあらかじめお詫びしておきます。
安達さんのご講演の中では、タンパク質の結晶化といった科学の話、それをどのように利用したか等のビジネスの話、自身の経験の話など、様々なお話をいただきました。それらのお話の中で、全体的に共通していた点が二点あると考えました。
一点目は、悪いと思われていることにも良いことはあり、良いと思われていることにも悪いことはあるという逆説です。これは、物事の評価を考えるときに、多面的に考えると常にトレードオフが伴っているということだと思います。例えば、「大企業は組織が大きく、ベンチャー企業は組織が小さい、ゆえに大企業は安定している」という話をあげましょう。これは確かに正しいのですが、「安定性」という一面的な評価に留まっています。他の評価点、例えば「仕事の自由度」という評価点からみてみると、大企業よりも組織の小さいベンチャー企業の方がより自分のやりたいように仕事ができるでしょう。当然、「組織が大きい」ことと「組織が小さい」こととは同時に実現できませんから、「組織が大きいこと」による「安定感」と「組織が小さいこと」による「仕事の自由度」は、トレードオフの関係にあると言えるでしょう。それだけなら誰にでもわかることなのですが、世間ではある一面的な評価が特に重要視され、それが固定観念を形成しているということは多くあります。そうした評価、固定観念にとらわれず、多面的な評価をすることが大事だと思いました。安達さんは「自分で決定することも大事」というようにも仰っていましたが、このことと同義のように思いました。
二点目は、今やれることをやるという積極的な態度です。この点に関しては、プレゼンテーションや質疑応答の時間を通じて何度も強調されていた印象ですが、特に私が質問したときのご返答から強く感じました。プレゼンテーションで「日本をベンチャー起業しやすい国にしたい」と仰っていたので、私は「日本をベンチャー起業しやすい国にするための具体的なプランはありますか?」と質問させていただきました。この時私は、「きっとベンチャー起業を支援する組織の設立のような構想が頭の中にあるだろうな」と思っていたので、返ってきたご返答にはっとさせられました。それは、「創晶を維持すること」と「現行のベンチャー起業支援プロジェクトに参加する人を一人でも多く増やすこと」というものでした。そうした、今できること、小さな日々の努力の積み重ねが、ゆくゆくは大きな結果をもたらすのだと思いました。
その他にも色々学ぶところはありましたが、私は特にこの二点に関して特に強く思うところがあったので、この二点をもって感想としようと思います。
安達宏昭さん、お忙しい中わざわざ島根県育英会大阪学生会館でご講演いただき、ありがとうございました。
5月15日9:30から防火避難訓練がありました。平日の午前中で授業があることもあり、参加者は多くはありませんでした。一昨年近隣で全焼する火事があり、昨年は北大阪地震と災害が身近で起こったこともあり、例年になく身近な気持ちで参加しました。放水の際のホースの水圧の大きさや、避難訓練の避難ばしごの工夫等驚かされることも多かった訓練でした。今後予想される南海トラフ地震や地元から求められている災害ボランティアにも活かしていきたいと思いました。