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秋といえば

こんにちは。4年生の玉田です。秋が深まってきましたね。外を歩くと紅葉している木をよく見かけるようになりました。秋といえば、食欲の秋、スポーツの秋等々言いますが、皆さんは何を思い浮かべますか?

 個人的には秋といえば芸術の秋!ということで、今回は芸術について書こうと思います。大学では音楽学を専攻しており、音楽を含む芸術全般について勉強しています。美術鑑賞は大好きで、ジャンルを問わず見ます。画家の生涯、作品の背景・位置づけなどをきちんと勉強してから見たらもっと面白いだろうな…と思う一方で、直感的に「この絵いい!」という作品を反芻するのが心地よくもあります。

 今までに見た絵の中で最も印象に残っている絵のひとつが、クロード・モネの《バラの小道の家》です。モネはフランスの印象派を代表する画家で、その試みや技法は近代以降の絵画にも多大な影響を与えました。この絵は1925年、モネが亡くなる前年に描かれた油彩で、この時モネの目はほとんど見えなくなっていたのだそうです。
 一瞥しただけでは、何が描かれているのか分からない絵だと思いました。画面の左右にピンクや赤のバラがこんもりと茂っている様子が描かれているのですが、ほとんどバラの形を成していないほどに形態が崩れています。ほぼ盲目のモネの目に見えた風景を想像しつつ、絵の具のツヤや凹凸によってその崩れたバラが躍動感をもって浮かび上がってくるように見え、圧倒されました。死ぬ間際にこのような絵が描けるなんてすごい、いや死ぬ間際だからこそ描けたのか?などと、考えが止まりませんでした。

 芸術には、自分の身体を媒介にして、崇高なものと自分の心を繋げるという一面があると思います。モネは不自由な自分の目(身体)を精一杯使って、外の世界と自分の心を繋げたから、素晴らしい作品が生み出せたのではないでしょうか。このような作品にたくさん触れてみたいです。芸術の秋、めいっぱい楽しみます。皆さんも、素敵な秋をお過ごしください。

最近の会話

こんばんは。ここ数カ月、全く外に出ず、金木犀の香りを感じることができなかったため、ネットで金木犀の香水を購入した4回生の寺井です。毎日、金木犀の香りで幸せです(笑)

さて、本日は最近寮でよく話す事柄についてここに記したいと思います。

最近寮で、自分の島根での暮らしをみんなで話すことが増えました。寮生はみんな島根県出身ですが、それぞれ市町村が違うため、暮らしの態様も様々なのです。

例えば「クマ鈴」。このブログを読んでいらっしゃる方に「クマ鈴」を知っている方はいらっしゃるでしょうか。クマ鈴はクマの接近を避けるためのものらしいのですが、寮生の中にはクマ鈴の存在を知らない人もいます。私からすれば、クマ鈴は小学校の時に特に山の中に住む児童が学校から支給されるもので、生活の中で普通に存在していたものですから、知らない人がいると知った時は驚きました。

また、各自宅に備え付けられている「無線」の有無も異なるようです。私も実家にはなかったものの、祖父母の家には無線があり、幼少期、そこから急に流れてくる男性の低い声に恐れおののいていた記憶があります。そんな低い声で「クマが出ました」なんていうものですから、夜寝られなくなるのも無理ありません(笑)

このように、県内でもどのような暮らしがなされているのか結構異なることが寮生同士で話していてわかります。そしてその会話の楽しいこと楽しいこと。市町村は異なっても、みんな島根愛は同じなのでしょうね、きっと。気づけば「うちはこうだった」「え、それ知らんかったわ!」なんて会話してます(笑)特に今年はコロナで帰省できていない学生が多いのでそのような会話になってしまうのでしょう。まだまだ私の知らないことはたくさんありそうです。

 

こうしてブログを書いているうちに日付が変わり、私がいつもお世話になっている大切な人の誕生日となりました!この場を借りてお祝いします!お誕生日おめでとう!いつもありがとう!!

 

以上寺井でした!!

TENET

こんにちは。2回の奥田です。
急に寒くなってきましたね。前回寄稿した際から半年くらい経ちましたが、変わったことは食事の際カロリーを管理するようになった以外特にないです。


先週、大学帰りに京都の二条駅前の映画館で「TENET」を観てきました!

手がけたのは、「インターステラー」などで有名なクリストファー・ノーランです。映画をよく見る人なら誰もが知っている有名な監督さんです。感想は、、、とにかく凄い(語彙力皆無)。内容が難しすぎて全然理解が追いつきませんでした。ここで内容を言ってしまうとネタバレになるので言及は避けます。


観に行った映画館はIMAXという技術に対応した数少ない映画館で、他の映画館より500円ほど高かったのですが、その映像技術に圧巻しました。映画内容もそうですが、エンドロールに流れる、トラヴィス・スコットの楽曲「the plan」の重低音感が凄くて、体がゾクゾクしました。そこに一番の感動を覚えたと言っても過言ではないです笑
内容理解を深めるために、そして楽曲の重低音をもう一度味わいたくなったので、また今度2回目を観に行きます。


エキスポにある映画館は日本最大級のスクリーンがあると聞いてはいたものの、まだ行ったことがないので、そこで観たいと思います笑
皆さんも是非観に行ってください!

推していきたいジャニーズJr.

2020.10.4(SUN)
こんにちは。4回生の池本です。
今日は、私事ではありますが最近注目しているジャニーズJr.2組について書きたいと思います。
もともと2011年にCDデビューしたKis-My-Ft2と今年1月にCDデビューしたSnow Manが好きだったのですが、その2組のバックダンサーとしてついていたジャニーズJr.も見始めて、気がついたときにははまっていました。

まず、Jr.SP(ジュニアスペシャル)というグループです。メンバーは、アクロバット担当、バレエ経験者、歌とタップダンス担当、顔担当の4人です。グループ名にスペシャルとついているだけあって、4人ともパフォーマンスが素敵で、先輩グループのバックについていても目を惹かれます。特に、メンバーの中村浩大さんは劇団四季のライオンキングでヤングシンバ役を務めたこともあり、歌唱力が素晴らしいです。ジャニーズの先輩のバラード曲を歌っている動画がいくつかあるのですが、最近の私の子守唄になっています(笑)
パフォーマンスだけでなく、4人とも年齢が19、20歳と近いため、動画を見ていても仲の良さが伝わってくる温かいグループです。

次に、クリエCと呼ばれている7人組です。7人は今年東京のシアタークリエにて行われる予定だったジャニーズ銀座C公演に出演予定だったのですが、まだグループとして活動しているわけではないためクリエCという愛称がついています。この7人もダンスのキレの良さがあってかっこいいです。以前、メンバーの基俊介さんと横原悠毅さんがKis-My-Ft2の楽曲に振りを付けて7人で踊っていたのですが、Kis-My-Ft2の北山宏光さんからも絶賛されたようです。
正式にグループ名が決まることを楽しみにしています。

長くなってしまいましたが、もしJr.SPとクリエC(合わせてKis-My-Ft2とSnow Manも…)のことが少しでも気になったらぜひ調べてみてください!
お読みいただきありがとうございました。

最後の文章が一番大事

2020年9月29日
残暑の季節も過ぎ、段々と過ごしやすい気候になってきました。
こんにちは、修士1年の西村です。

今回は、オンラインライブイベントと会場でのライブイベントの2つの観点からコロナ禍での音楽イベントとの付き合い方について書こうと思います。

オンラインライブイベントについて
昨今、様々な音楽イベントの中止、延期が余儀なくされ、代わりにオンラインライブが頻繁に行われるようになりました。僕もいくつか視聴しましたが、ドラマー視点の映像や、演者の近傍でのカメラワークなど、オンラインでしかできないライブのスタイルに挑戦していて、とても新鮮でした。

会場でのライブイベントについて
先日、野外ライブイベントRUSH BALL 2020が大阪府泉大津で開催され、参加してきました。自粛ムードの中、開催に踏み切った今年唯一の夏フェスが、このRUSH BALLです。イベントには[Alexandros]やTHE ORAL CIGARETTESなどが参加し、大盛況でした。
このイベントではコロナ対策が徹底して行われていました。参加者は近畿在住者のみ、入場者の制限(例年の4分の1)、入場前の健康診断、体温測定はもちろん、会場内における1mのソーシャルディスタンスを保つためのネットフェンス、イベント後のコロナ追跡システムなど。
2週間が経ち、感染者は0、イベントは成功しました。

僕が言いたいことは、参加しないのは勿体無いということです。
確かにオンラインライブは生音と比べて劣るし、会場での雰囲気を味わうことはできません。しかし、アーティストたちはオンラインライブでしかできない演出を実践しています。比較するのではなく、新しいコンテンツとして捉えることが今を楽しむことに繋がると思います。
また、会場でのライブイベントに関しても、以前と同じように音楽を楽しめるように模索しています。最近は少しずつ行われるようになり、試行錯誤を重ねてより良いものになりつつあります。

音楽イベントに限った話ではないですが、コロナ禍で変わってしまったもの、新しく生まれたものを異物として捉えるのではなく、コロナ禍でしか体験することができなかった良いもの(というと少し不謹慎ですが)として受け入れることが大切であると思いました。

最後に、全然関係ないですが、9月30日にUNISON SQUARE GARDENの8thアルバム「Patrick Vegee」が発売します。ぜひ聴いてみてください。

それでは。

PS5が欲しいこの頃

こんにちは、303号室の古田です。
最近は夜がエアコンなしで扇風機で十分な気温になってきて夏ももう終わりで、秋になるのか~としみじみ思いました。
私は薬学部5年生になり、薬局と病院実習がありました。実際の薬剤師さんと同じ業務を行い、たくさん勉強しました。9/18の今日それが終了して達成感がいっぱいです!あとは研究室で研究頑張って、卒論書いて、就活して、薬剤師国家試験を通るだけです。意外と色々あるな~(笑)
みんなのブログ内容がしっかりしていて、私は今回なにを書こうかな~と思ったんですけど、ステイホーム期間で私が運動不足解消のために始めた筋トレについて少し語ろうかなと思います。
新型コロナウイルスの影響があり、寮で過ごすことが多く、また外に出れないこともあって、自宅で出来る筋トレ動画を見て運動しています。特に芸人のなかやま筋肉君が出している動画はオススメです。今までも何度か筋トレはしてきたのですが、私はガリガリ体系ということもあって、だいたいの筋トレ内容がきつくて諦めていました。ですが、筋肉君の動画は分かりやすく、負荷を軽減したやり方も出しており、楽しく続けることが出来ました。
また、栄養管理も気にするようになりました。私のようにガリガリ体系が体重を増加するのは、ホントに思っている以上にキツイことをこの筋トレ期間で実感しました。あんなに食べても体重変わらない、朝を一回抜いただけで2kg減る、筋トレしたのに筋肉大きくならず体重さらに減るとか結構ありました(笑)女性にとったら嬉しいことだと思うんですけど、ガリガリな私からしたら結構ショックです。ひょろひょろで弱いな~!って自分のことを心の中でいつも言ってました。
ガリガリな人が食べても太らない原因として、3つあることが調べて分かりました。1つ目に代謝が良い。これは、もともとその人の基礎代謝が良くて、普通の人よりも消費カロリーが高いことを意味します。2つ目に腸管での栄養の吸収量が悪い。これは、私が一番当てはまると感じました。胃腸の調子が悪く、食べ過ぎるとお腹壊したり、またいくら食べてもその分だけ栄養として吸収されず、便として外に出てしまうことを意味します。3つ目に摂取カロリーが消費カロリーを上回っていないことです。単純にカロリーをもっと摂取しなければいけないということです。
私はこれを気をつけるために、朝はヨーグルトと納豆で腸を整え、プロテインの摂取、朝昼夕毎日しっかり炭水化物を食べることを意識しました。さらにプロテインの種類ですが、私はウエイトゲイナーと呼ばれる体重増加用のハイカロリーのプロテインを朝と寝る前の2回毎日飲みました。そのプロテインは普通のプロテインとは違い、脂質や糖質が多めに入っており1杯(約100g)カロリーが355kcalと高カロリーのプロテインとなります。これを飲むことで日々足りていないカロリーの摂取につながり、摂取カロリーが消費カロリーを上回ったら必ず体重は増えます。しかも重要なのは寝る前に飲むことです。寝ている間もカロリーは消費するので、出来ればそれを補うために寝る前のプロテインは大切になります。私は5月から9月の今日までで7kg増量しました。もともとものすごく痩せていたので、周りからは体の変化は分からないと思いますが、自分ではかなり実感しています。このまま継続して、自分の身長の標準体重までには持っていきたいのであと4kg太れるように頑張りたいと思います。もしガリガリを脱却してみたい方はぜひ参考にしてみてください。
皆さんも家にずっといてだるい時は、筋トレしてリフレッシュしてみてはいかがでしょうか。
ブログを読んでいただきありがとうございました。See you again♪

【勝手に宣伝】東方Project×隠岐の島町コラボ

4回生の吉岡です。島根県の隠岐の島町と、日本で最も有名なインディーズゲームの一つである「東方Project」がコラボすることになりました!なので、勝手に宣伝します。
このコラボでは、隠岐の島町に伝わる民話「舟幽霊ムラサ」をモデルにしたと言われるキャラクター「村紗水蜜」とコラボした日本酒「東方隠岐誉・純米大吟醸」が発売されます。
商品・コラボの詳しい内容を知りたい方や商品を購入したい方は隠岐酒造株式会社のHPをご覧ください。https://okishuzou.com/item/2964/
自分の好きなゲームが地元の自治体とこのような形でコラボするということで、とても嬉しく感じています!これを読んでいる方もぜひ「東方隠岐誉・純米大吟醸」そして東方Projectの作品(※)を買っていただきたいです!
このコラボもそうですが、隠岐の島町は8月27日放送のヒルナンデスで島の魅力を紹介されており、若者に認知してもらうための活動を積極的にされている印象です。隠岐の島町が若者に認知されるようになれば、隠岐の島町だけでなく島根県全体にも良い影響をもたらすと思うので、烏滸がましい言い方かもしれませんが海士町に続く町おこしの成功事例の一つになると良いなと思っています!

※村紗水蜜がボスとして登場する「東方星蓮船」は、東方Projectのゲームの中でも難易度が高いと言われています。個人的には、最新作(2020年9月時点)の「東方鬼形獣」か、難易度が優しめと言われる「東方妖々夢」「東方風神録」あたりを最初にプレイされることをお勧めします。また、「東方鈴奈庵」「東方三月精」等の漫画形式の作品もあります。
※「東方文化帖」以前の作品(先述した「東方妖々夢」「東方風神録」を含む)はWindows10では正常に動かないため、Windows10で正常にプレイするためには有志によって製作された対応化ツール等を利用する必要があります。

2020年9月7日

こんにちは、1回生の森脇です。9月になりましたがまだまだ日中は暑く、昨日からは台風10号の影響で外では風が勢いよく吹いている状況です。僕は大学合格後の3月の終わりから4月の頭にかけての1週間程大学のオリエンテーションに参加するため学生会館で過ごしましたが、すぐに地元に戻り、そこから現在に至るまではずっと松江で過ごしています。自身初となる大学生活は、自分が思い描いていたものとは違ったものとなりました。授業は全てオンライン。大学の同級生の人とのコミュニケーションも全てネット上。サークル活動やバイトもままならない。3月までの勉強に明け暮れる毎日とは違い、時間にはかなりのゆとりが出来ましたが、大学生としてはやはり物足りない日々を送っているなというのが正直な感想です。そんな毎日ですが、色々工夫しながら怠惰な生活にならないようにしています。7月に自動車免許を取得してからは、親から平日の買い物を頼まれたり、島根にいる同級生と会って遊んだりしながら毎日を過ごしています。僕の通う大学では、秋学期から一部対面授業が再開することが発表されました。感染症対策を講じながら、今後大学生活を楽しめたらなと思います。以上です。ありがとうございました。

2020年9月4日

四回生の福場です。僕は二月からこの方地元の松江で過ごしていますが、この半年を振り返ってみた感想は「割と悪くない」でした。授業はPCを開けばすぐにでも始められるから移動する労力も時間も削られる。そして空いた時間は好きなように使える。おかげでかなり語学がはかどりました(語学書はかさばるので学校にはあまり持っていけないのです)。図書館に行けなかったのは大きな損失でしたが、おおむねのQOLは上がったように思います。
 ただ、こんなことが言えるのも僕が四回生だったからです。今年の新入生の事を思うと同情しかありません。特に我が外国語学部の後輩たちは相当な苦労を強いられたはずです。なぜなら「サバイバル学部」とも言われることのあるこの学部(要出典)は、毎日必修の講義があり、そのうち二日以上はネイティブ教官の授業を受けないといけないからです。このネイティブ教官、日本語はもちろん話せない人が多いのですが、アジア圏や旧共産主義国の出身の方になると英語すら分からないことがあるのです。つまり、新入生はモンゴル語の「モ」の字もわからないのに前期の第一週目からオール・モンゴル語の授業(90分)を二回も受けないといけない、といった事態が発生するのです(実話)。その日の昼はランチ・タイムを返上して、みんなで配られたプリント(全部モンゴル語)の解読に努めます。ただ、文字も初めて目にするので遅々として進みません。四月・五月はこんな江戸時代の蘭学者たちみたいな光景があちこちで見かけられました。今年はそれさえできないのです。
 先生方も、さすがに鬼ではないので個人の負担が軽くなるよう善処されてるとは思いますが、やはり相談相手がいないのは大変です。僕も今年語学の講義を一つとっていましたが、ひとりでついていくのは大変でした。一年生たちの心情は察するに余りありです。
あまりまとまりのない文章になりましたが、とにかく「艱難汝を玉にす」と信じていまは耐えるほかありません。そのほかの皆さんも、コロナ、猛暑、台風と気が休まらない日々ですが、どうぞご自愛ください。

2020年8月31日

こんにちは。4年生の玉田です。2月に帰省して以降ずっと地元におり、新入生の皆さんや新しい館長さんとまだ一度もお会いできていません。長く寮を離れると寮生活の感覚を忘れてしまいますね…半ば新入生のような心持で、寮生活の再開を楽しみにしています。

 コロナ渦の混乱と戸惑いの中、今年度も半分が過ぎようとしていますが、皆さんにとってこの期間はどのようなものだったでしょうか。私にとっては、オンライン授業のメリットやデメリットを等しく享受し、遠方の友人とオンライン飲み会で気晴らしをし、インターネットの恩恵を享受しまくった期間でした。遠く離れた人と一緒に活動ができるってすごいですね。一方で、今まで当たり前だったことが当たり前でなくなることとか、恐怖や未知に突き当たると人間の醜さや脆さが出るということを、身につまされる期間でもあったように思います。コロナウイルス感染症と同じパンデミックから学ぶということで、NHKで放送されていた中世ヨーロッパでのペスト大流行の特集番組を観たのですが、正しい対処法を知らずに感染を拡大させてしまったり、他人に感染拡大の責任を負わせて迫害したりということが中世でも起こっていたことを知りました。土壇場で人間の本性が露呈するとよくいわれますが、自分が辛い時に人に八つ当たりしなくてすむように、醜さや脆さも含めた自分の中の色々な性質に向き合うのは大切だと感じます。

 気晴らしに外に出てみたら、アキアカネを見つけました。きれいな色です。暑い中にも秋が近づいていますね。熱中症等に気を付けて、元気にお過ごしください。

2020年8月27日

こんにちは、1回生の長谷川です。8月ももう終わりそうですが、この暑さはまだまだ続きそうで大変残念です。世間はコロナでまだまだ大変な状況ですが、僕はやっと課題の多さに区切りをつけたところです。今、ちなみに僕はレジの待ち時間にこのブログを書いています。午後ティー1本だけ持って並ぶのは少し恥ずかしいです。今会計が終わりました。レジ袋を持って行ってはいなかったので余分にお金を取られました。もったいないと思いつつ袋を買いました。ですが、実際のところポリ袋は石油を作る過程の使わない部分を利用して作るっているという話を先日Twitterで見ました。(ので嘘かもしれない)つまり、お金をかけてポリ袋の利用を制限してもあまり意味が無い可能性もあるってことです。まあ、エコバッグ買いたいですね。みなさんはエコバッグ派ですか、今まで置いていたビニール袋持ち歩く派ですか?僕は後者です。でも、マイバッグは欲しいです。全然どうでもいい事なのですが、「まあ、エコバッグ買いたいですね。」の前後で2日間空いちゃいました。以上です。

花火したいです

2020年8月18日
 二回生の飛田です。梅雨が明けたと思ったら、厳しい暑さが続いて毎日が生きづらいです。今年はコロナウイルスの影響で帰省することができず、遠くに遊びに行くことができてないです。そこで寮の友達と近場で遊びに行ってきました。高槻市の摂津峡というところに行きました。この寮からは片道約15キロほどの距離にあり、自転車で向かうにはとてもちょうどいいところです。摂津峡につくまでは渋滞などができていましたが、駐車場の数が少ないためか人の数はそこまで多くはありませんでした。摂津峡では涼を感じることができて、とてもよかったです。写真を挿入しておくので、皆さんにも涼を感じてもらえたらと思います。帰りはちょうど気温が一番高くなる14時くらいだったので、とても暑かったです。この一日だけで自動販売機で4本も買うことになりました。とはいえ、良い思い出になりました。楽しかったです。アイス美味しかったです。
 今後も暑い日が続くと思われます。皆さん、熱中症にはお気を付けください。

20/08/07

こんにちは!2回生の窪田です。最近暑いですね。まるで茶碗蒸しの気分です。私はギリギリまで冷房をつけないタイプですが、今年は梅雨の時点でつけてしまいました。使いすぎだと母に怒られてきます。:₎
最近では急に対面授業になったりリモート授業になったりで精神的にやられてます(課題の面で)。この不安定な状況での授業でとても悲しかった事があるんです。私、リモート授業で始まった、とある授業の先生がすっごく大好きなんですね!!その先生は動画配信で後日視聴できるようなシステムで授業が行われます。正直、先生からすると視聴数でしか確認できないのでみんなサボりがちですが、私は頑張りました、!!(自慢)その後対面授業に移行しましたが、3回でまたリモート授業になりました、、。その先生は今期で学校からも居なくなってしまう先生で終わるまでに話したいと思ってましたが、いつもギャル達(偏見)に囲まれているので最後の最後まで話しかけられずにいました。そこで悲しみのあまりメールしてみたんです。すると、返信が来たんです!飛び上がりましたよね。先生もすごく嬉しそうに「素敵なメッセージありがとうございます!」ってご返信くださって脳が沸騰しそうでした。ただいま実習中なので、この時のことを思い出して乗り切ります!

夏季休暇に入りました!

2020年7月31日

2回生の奥田です。
コロナ禍により、大学がオンライン授業に移行し、膨大な量のレポートなどつらいことも多々ありましたが、何とか乗り切れました。レポート地獄のおかげで、春学期を通してタイピングだけは無駄に早くなったような気がします。
最近は、この夏季休暇を何して過ごそうか思案している間に一日が過ぎるという、なんとも生産性のない日々を過ごしています。
時間を無駄にしたくないという思いから惰性でTOEICの勉強をしています。というのは、英語は留学に行く前提で勉強していたからです。本来コロナがなければ8月末からカナダに8か月ほど滞在する予定でした。留学がなくなった今、とりあえず750点を目標にしていますが、マジで惰性で勉強している感じです。
そのほかには、ゲームしたり、Netflix見たり、サッカー観に行ったり、鬼のようなしんどさの夏期バイトしたり、爆睡きめたりと、客観的にみても大学生だなーという生活をしています。旅行もしたいですね。僕は行きたいんですが、ほかの友達がコロナに対してどう思ってるのかわからないので、誘うのがめんどくさいなって思ってます。
あと、大学から夏休みの宿題が出されているのでそれもやらないといけないです。論文20本読んでそれぞれをレジュメにするというシビアな課題です。教授は僕らのことを中高生だと思っているのでしょうか、会ったら聞いてみたいです。
こんな感じでやりたいこと、やらないといけないことを羅列してみたら意外と夏季休暇中暇することはなさそうであることが分かりました。良かったのか悪かったのか知りませんが、とりあえず頑張って生きていこうと思います。
まとまりのない記述ですみませんでした。終わります。

徒然なるままに、とはずがたり

4回生の吉岡です。特に書くことも思い当たらないので好きな歌を紹介します。
「熟多津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(万葉集巻一-八)
いささか有名すぎる歌かもしれませんが、お許しください…
この歌は額田王が詠んだとされる歌です。万葉集を代表する歌人であり、
「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(万葉集巻一-二〇)
やその返歌として大海人皇子が詠んだ
「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」(万葉集巻一-二一)
はあまりにも有名です。
斉明天皇の七年(西暦661年)、朝鮮の百済を助けるべく出兵します。その兵を乗せた船がいままさに出発しようとしている時、この歌は詠まれたとされています。
「船に乗ろうと月を待っていたら、(月も出てきて)潮もほどよくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出そう」
思えば兵を乗せた船に女性である額田王が乗っているのは少し違和感があります。これは当時、女性は神聖視されており、戦争などのときには止ん事ない身分の女性が同乗していたからだそうです。そんな額田王によって詠まれたこの歌からは、頃合いが整ったことを表現する月や潮の描写とともに、軍に渇を入れるような気迫が伝わってきます。きっと戦いに赴く兵士達の励みとなったことでしょう。

プチ新入生歓迎会を開催しました!

こんばんは!4年生の萌です。
最近はコロナが収まったかと思いきやじわじわっとまた出てきましたね。大雨にも気をつけていきたいですね…。

学生会館では4月から、ウイルス感染防止のためイベント等はほとんど開催していませんでしたが、やるなら今しかないのでは…と考え小規模な新入生歓迎会を行いました!


以前島根から送っていただいた仁多米がまだ少しあったため、中華料理や色々なおかずを用意して、たくさんご飯を食べながらの会になりました(・u ・)ŧ‹”ŧ‹”

来れなかった寮生からも事前にアンケートに回答してもらい、寮生に関するクイズをしました!寮生の意外な側面が見れてなかなか楽しめたのではないでしょうか!笑

1年生も、これまで話したことのなかった上回生について知ったり話したりできたようでした( ˊᵕˋ*)


ちなみに花火もやろうという話だったのですが天気が悪く中止になってしまったのが残念でした:/
夏がやってくるのでまたの機会にやりたいです!

以上新入生歓迎会の報告でした!

後援会の皆様よりお野菜をいただきました

こんにちは。自治会長の寺井です。
本日、島根県育英会後援会の皆様より、たくさんのお野菜と海鮮おこわが届きました。
分けるために事務室まで下りてびっくり!見たこともない量の段ボールが積み上げられていました!開けてみると、玉ねぎ、じゃがいも、しいたけなど8種類の野菜!近くのスーパーよりもたくさんあるんじゃないかと思うくらいたくさんでした。なかでも、メロンは自分たちではなかなか買うことのできない物なので寮生みんな喜んでいました!
野菜を受け取りながら、「何に使おうかな」や「カレー作ろう」とつぶやく1年生もいました。
自粛期間中に自炊をする寮生も増えたようで、とてもありがたい贈り物でした。
育英会後援会の皆様に寮生を代表してお礼申し上げます。
ありがとうございました。

                 てらい

自粛期間を経て

こんにちは。坂根です。長らくコロナウイルス感染防止のための自粛期間が続いていましたが、5月後半から緩和されてきましたね。最近では県をまたいでの移動も可能となり、街に出る人の数もかなり増えてきました。テレビを見ていると、外出自粛期間中には撮りだめしていたものの放送や「総集編」「名場面集」が目立っていましたが少しずつ撮影・ロケが再開されてきています。しかし、「マスク着用」「3密」「ソーシャルディスタンス」などの言葉があらゆるところで用いられ、拭い去ることができていません。
 そんな中、私はある番組の放送を知りました。その番組は「IPPONグランプリ」です。私はバラエティー番組やお笑いの番組が好きなので、この番組が放送されるときは必ずチェックしていました。そのため、放送を知った時は楽しみにする反面、「どのような措置がとられるのか」「いつものように楽しめるのだろうか」と思う気持ちがありました。そのため、いつもとは違う面持ちでした。いざ番組が始まると芸人たちの距離感は若干広く、間にはアクリル板、観客は一般の方ではなくゲストの芸能人少数という寂しいものでした。しかし、番組冒頭、チェアマンを務める松本人志さんは「大喜利はこんな状況でもできる。こんな状況だからこそ開催するべきだと思う」と述べていました。私はこの言葉を聞いて感動しました。今回の開催は現状に対する前向きな姿勢のもと、満を持してのものだということを感じたからです。それから番組はいつもと変わらぬように進行していき、私はいつものように終始笑っていました。私は普段からストレスを感じたり疲れたりしたときにお笑いの動画を見ていたのですが、より一層元気をもらった時間でした。それと同時に、芸人の方々の底力を感じました。この番組に限らず、「コロナに負けるな」「はなれていてもぼくらはいっしょ」といったメッセージが込められた番組や動画がたくさん生まれました。コロナ対策従事者への寄付なども行われました。2011年に、「今年の漢字」として『絆』という漢字が選ばれましたが、もし再度同じ漢字を用いてよい、ひいては世界的なキーワードとして掲げらるとすれば『キズナ』を推薦したいです。それだけ私にとって人々の絆を感じる出来事がたくさんありました。
 まだ皆が元気に暮らせるようになるまでには少し時間がかかるかもしれません。第2波の心配もあります。しかし、私たちが今できることは何かを考え、行動することが大切だと思います。私個人としては6月から大学の研究室への出入りが許可され、少しずつですが研究を再開しています。皆さんにも今こそ何をリスタートするか、もしくは何を新たにスタートするか、考える機会としてほしいです。そして、皆さんも、この期間に少しでも前向きに思わせてくれたコンテンツに出会えていることを願っています。

仁多米支援米を送る会様より仁多米をいただきました

こんにちは。自治会長の寺井です。本日、仁多米支援米を送る会様より学生会館に仁多米が届きました。その総量なんと120キログラム!!!!!
コロナウイルスの影響により、今年はお昼ご飯を自炊する学生が増加しましたので、高級な仁多米はとてもうれしいものであり、寮生みな喜んでおります!!早速みんなで分け合いました!!
1人約20合ずつということで、ほぼ取り放題状態です(笑)
このように、自粛期間大変な中でも、島根から支援していただけることは、この寮に住んでいる最大のメリットではないかと思います。自粛期間中も、以前よりは接触は減っていたものの、1人暮らしとは違い、信頼できる仲間と一緒にいられるため、精神的にも安定しておうち時間を過ごすことができました。この寮に住んでよかったと思えます。
大阪でも緊急事態宣言が解除され、だんだんと元の日常に戻っていこうとしていますが、気を緩ませることなく、体調管理には万全を期して過ごしたいと思います。

最後になりましたが、仁多米をくださった支援米を送る会の皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました!!

                 てらい

5月24日除草作業

こんにちは:)
2回生のさとうです!昨日は除草作業を行いました。現在帰省しておられる方を除いて全員が参加し、9時から11時の2時間、協力し合って作業を行いました。1年間の蓄積により、草がものすごい成長を遂げており、例年より少ない23人の参加者では手に負えないかと思われていたことに加え、昨日は気温が高く、暑さにより突然やる気が削がれてしまうなどの影響が懸念されていましたが、皆さんの気合と除草技術、そして先輩方のキャリアのおかげでスムーズに、しっかりと除草することができました。ありがとうございました!!わたしは除草作業後の午後は凄まじい眠気に襲われましたが、とにかくきれいになってよかったです!!おつかれさまでした!

大学新生活 ~挑戦!~

初めまして。3回生の日野です。
 今年度から20年間過ごしてきた地元を離れての大学生活がはじまりました。(5/18現在まだ2回しか大学に行ってません)
 本格的に授業が始まってまだ1か月ですが、課題とレポートの量に打ちひしがれています。オンライン授業のせいでしょうか…。GW明けてから先生方がさらに本気を出してきたため、生活リズムが狂い始めてきました。オンライン授業でPCのブルーライトをずっと浴びてるためなかなか眠れません。蒸気でほっとアイマスクなどは信じない根性論タイプですが、一回買ってみようかな…。
 話がそれましたが、大学での僕のスローガンは「挑戦」です!高専では"大変そう"だとか"そんな時間ない"などと理由をつけては色んなことから避けてきました。ですが新環境に移ったのをいいチャンスとしてこの性格を治したいと思い、続くか続かないか、時間が足りるかなどの後先はあまり考えず自分の興味の持ったことに積極的に取り組むことにしました。その中で特に力を入れている2つを紹介しようと思います。

1.IT系
 今では誰もが聞いたことがある言葉ですね。最近のニュースでは小学校でプログラミングが必修化されるだとか。恵まれてるなぁ。時代の流れに遅れぬよう僕も4月からIT系に関する資格の勉強を始めました。やはり何事も知識がないとコミュニケーションが成り立たないという高専時代の教えを活かして勉強していこうと思います。また、最近になって"競技プログラミング"にも手を出し始めました。学校の課題などで忙しいですが、ここでやらなかったら成長しない!と思い切って始めてみました。案の定睡眠時間が減りました(笑)競技プログラミングは半年程度かけてじっくり成長していけたらなと思います。(次回のこのブログで進捗をお伝えするつもりです!)

2.経済系
 金融リテラシーに関して言えば小額投資だったり保険だったり。これらに関しては今のうちから正しい知識を持って正しい選択をすれば無駄な支出が減ったり老後に使えるお金を増やせるんじゃないかと期待しています。不労所得を望む人が多いですが、このあたりの知識を身に付けておくのがお金を貯めるのに一番コスパがいいんじゃないかと思います。
 経済というとお金の話だけかと思ったらそうでもないみたいです。先日"学力の経済学"と"家族の幸せの経済学"という2冊の本を読みました。前者は人間の学力は何によって決まるのか、また、どのような子育てがよいのかなどという話。後者は学力ではなく家族や恋愛に関して焦点の当てて同じような点を探っていく本です。両者に共通しておもしろい点は、実験による科学的なデータを基に説明がなされている点。皆さんが学力向上や子育てに関して正しいと信じていることは科学的にはどうなのでしょうか?ぜひこの2冊を読んでみてください!

というわけで世の中も僕自身も大変な時期ではありますが、「挑戦」のスローガンを掲げたからにはやりきってみせます!
次回いい進捗報告ができるように頑張ります!それでは!

おうち時間の過ごし方

こんにちは~。2回生の佐藤萌衣です。コロナ禍でのおうち時間、みなさんはどのように過ごしていますか。今日はわたしのおうち時間の過ごし方について書いていこうと思います!
 わたしは4月からオンラインで大学の講義が始まり、8月まではすべてオンライン講義となっています。春夏学期はわたしは多めに授業をとっているので、コロナ禍とはいえ平日は結構忙しいです。外国語学部なので、ビルマ語、英語、韓国語の3か国語や、東南アジア全体、北欧、中国、アフリカ、イギリスの文化などの授業があり、世界各国の事をいろいろと学んでいます。このような授業内容だと、海外旅行に行きたくなってちょっと悲しくなるのですが、ここでオンライン講義の最大の利点を見つけてしまいました。それは、通学時間カットされたことで、授業開始ぎりぎりに起きても全然大丈夫になったということです。これは寝るのがすきなわたしにとって非常にありがたいことです笑
 授業の後や休日は、授業の課題をしたり、運動をしたりしています。このようにおうち時間が増えると、寝たきりになったりスマホの歩数計も100歩以内になってしまったりと大変なことになってしまいますし、健康にも悪いですので、毎日運動をして汗をかくようにしています。10キロランニングや60分ヨガは程よく体を動かせるのでよくやっています。ランニングは音楽を聴いたり道端の花の写真を撮ったりするのが楽しいです。ヨガは予想以上にハードですが、いかにも健康になれそうな感じがします。わたしはサイクリング部でキャンプをよくしていたので、キャンプ用のロールマットがヨガマットに最適であることに気づいてひそかに喜びました。ランニングばかりしていると足が痛いですし、ヨガばかりしていると毎日体の各地で筋肉痛が発生してしまいますので、バランスよく行うのが重要です。
 ほかには、なんやかんや資格の勉強をしたり、漬物を作ってみたりと常に面白いことを探しております。今やってみたいことは、東南アジア文化の講義で紹介されたハイフォンというベトナムのアクション映画を見ることです。NgoThanhVan(ゴータインバン)さんという女優さんがすごくかっこよくてすごく美人ですので暇な方はちょいと検索してみてください。ちょっと元気になれるでしょう。
 以上がわたしのおうち時間でございます。たいした特徴もない随筆でしたが読んでくださりありがとうございました。
 5月10日は母の日ですね。今回ゴールデンウィークの帰省は自粛ということでさみしいのですが、オンライン帰省でお母さんに感謝したいと思います。お母さんいつもありがとうね~。

家族ではない誰かと暮らすということ 2020.4.17

こんにちは!4回生(5回生?)の萌です。去年留守にしていましたが2月から寮に戻ってきました!ネパールでのボランティア生活とフィンランドでの留学生活についてこれからちょこちょこ更新していきたいと思います!今回は留学中考えていた「家族ではない誰かと暮らすということ」についてのひとりごとです。

 

 

わたしは一人暮らしをしたことが無い。大阪に出てきてからは島根県民が集う特殊なこの寮にずっといるし、留学中もほかの留学生やボランティアと一緒に住んでいた。「誰かと暮らす」ことにはどんな意味があるんだろう。留学中そんなことを考えていた。

 

学校でボランティア活動をしていたネパールでは、3ヶ月間現地のご家庭でホームステイをしていた。お父さん、お母さん、9歳と6歳の息子がいる、ネパールにしてはとても裕福な家庭だった。家は三階建てだったしバスルームも各階にあった。(洗濯機はなくて洗濯物は手洗いだったしドライヤーもないしよく停電断水するけどそれはもはやネパールの常識)。子供たちとは折り紙をしたりサッカーをしたり一緒にプールに行ったりよく遊んだし、ホストマザーは料理が上手で親切だった。

 

だけど、わたしが「一緒に暮らした」とより言えるのは、同じ部屋で過ごしてきたルームメイト達だと思っている。

 

7-8畳くらいの部屋だっただろうか。そこに3つのベッドが設置されていて、各国から来たボランティア達と時間を共にした。朝晩ご飯は一緒に食べたし停電や断水とも戦った。それぞれのボランティア先でしんどいことや嬉しいことがあったら一番に共有しあったしお互いの国の言語を教えあうなど他愛のないことからこれからの人生についてまでなんでも語った。

 

そんな暮らしをしていると何が起こるか。わたしの場合、プライベートな空間・時間がほとんどない環境で自分の中でのオン・オフの感覚が曖昧になっていった。だれしも「ウチ」「ソト」で自分自身の行動や気の持ちようはある程度異なると思う。その2つの境目がほとんど無くなって、ウチモードとソトモードが融合していったのだ。ウチモードが拡大していったと言う方が近しいだろうか。それは他人が他人でなくなっていく感覚と等しい。時間と経験を経るにつれ「外国人と同居」という感覚から「友達であり家族みたいな人との暮らし」というリラックスした感覚に変わっていったのだ。文化や言葉の違いで理解できないことや気を使うことなんかはもちろんあったけど、気を許すとそれらも共有できて解消出来るようになっていった。「一緒に暮らす」という経験がなければ、きっとあの子たちとはフィンランドからそれぞれの国を訪ねていくほど近い関係にはなれてなかったんじゃないかと思う。国が違っても、同じ家、部屋で暮らすことで広義の「家族」を得られるんだなあと思った体験だった。

 

その後交換留学で4ヶ月ばかり滞在したフィンランドでは、留学生向けのアパートを借りて住んでいた。キッチンなどを共有するフラットメイトはなんとわたし含め8人で、2人部屋が4つあるという大所帯だった。フラットメイトは全員アジア圏からの留学生でシンガポール人が4人、中国人が2人、台湾人と日本人(わたし)が一人ずつでわたしのルームメートは台湾人の女の子だった。この子がまた今までの人生で出会ってきた中で1.2を争うほどのいい子で、私がどんなにオチのない話をしてもいいリアクションをしてくれるししっかり者でいろいろな情報をくれるしスポーツ万能だし、とにかく最高だった。部屋に帰ってその日の出来事を共有できる相手がいたのは本当に留学生活の一つの支えだったし、アジア圏でコミュニティが近かったこともありたくさんグループでも遊びに行った。友達、だけどみんなで遊んでいても最後は同じ部屋に帰るというなんだか特別な関係を4か月間楽しませてもらった。

 

 

ネパール、フィンランドでの共同生活の話を友人にすると必ず、「そんなプライベートない空間でよく暮らせるね」とか、「疲れそう」とリアクションされる。わたしもやってみるまではそう思っていた。気を遣ったり人の存在を意識しすぎると確かに疲れるから、話したいときはがっつり話すけどお互いの時間も大事にして無言の時間はしっかり無言という距離感が大事だったんだろうと思うし、その無言の時間が距離を縮めていったような気がする。

私にとって「家族でない誰かと暮らす」というのは、自分のいくつかの面の統合であり、「ウチ」と思える範囲の拡大である。人が自分を飾らない「家」という場所で関わることは、外での関わりとはきっと違う。私はそんな環境で自分や他人とのかかわり方を探っていくのが好きだなと思うし、そう思わせてくれた歴代のルームメイトや寮生たちに大感謝である。

 

あと一年この寮でまた新しい関わり方をみんなで探っていけたらと思う。

 

 

ここまで読んでくださった方、もしいたらありがとうございます!笑

久々に文章を書いたら楽しかったのできまぐれにまた更新するかもしれないです。

それでは!(*’ω’*)

☆大阪学生会館 会館誌完成☆

こんにちは。4月になり、とうとう4年生になってしまった寺井です。先日、毎年恒例、大阪学生会館の会館誌が完成いたしました!今年は学生全員から寄稿していただきことができました!みんな協力ありがとう!自分の大学での勉強について書いた人や、旅行について書いた人、個性豊かな記事が集まりました!1年生の時は競技かるたについて、2年生の時は法学部あるあるを書いた私が今年作成した記事のテーマは「中国ドラマの魅力」についてです!以前(私が保育園生か小学生の時ですね)、韓国ドラマが大流行した時期がありました。もちろん、韓国ドラマも好きでよく見ているのですが、それ以上に中国ドラマがとても面白いんです!!きっかけは2年生まで履修していた第2外国語の中国語だったのですが、まさかこんなにはまってしまうとは思いもよらず、自分でもびっくりしています。

会館誌は新入寮生に寮の雰囲気を知ってもらうために作成するものです。今年入寮した6人の新入寮生もこの会館誌を読んで、早く寮に慣れてくれたらなと願っています。

最後に、企画委員をはじめ、会館誌を編集製本してくれた皆さん、本当にありがとうございました!!

                    てらい

花畑牧場サイコー!!!

こんにちは。2回生の木透です。
先日、寮のみんなでチーズフォンデュパーティーをしました。今回のパーティーは僕が企画しました。思いのほか参加してくれたので嬉しかったです。
チーズフォンデュには、あの「花畑牧場」のチーズをつかいました。とても上等なチーズをつかったためか、みんな口をそろえて「うまい!!」と言っていました。
あまりにも美味しかったので、もう他のチーズでチーズフォンデュはできないです(笑)
それぐらい美味しかったんです!!!
 今回企画したのは、僕は今年退寮するので追いコン後にどうしてももう一度みんなで集まって何かしたかったからです。
いい思い出ができました!
 就職先が吹田市内なのでいつでも呼んでください!
それではまたどこかで!!!!!!!!

現代の恋愛、あるいは思考と行動のズレについて

                              賀戸佑丞

 本稿はこれまで寮のブログで連載していたものの第四回である。これまではなるべく客観的記述になるよう抑制してきたが、本稿では私の主張したかったことをそのまま記述していきたいと思う。そのため、これまでの連載を読んでいない方も理解できる内容になっていると思う。

 これまで私は現代に特徴的な恋愛についてまとめ、それらが恋に落ちることとどのように異なるのかを述べてきた。そして愛の行為とはどのようなものかについて述べた。恋に落ちることと愛の行為は日常性からの逸脱という点では共通している。恋に落ちた者はそれ以前のままではいられなくなり、何らかの変容と行動を迫られる。愛の行為では主体同士の間にそれまでは存在していなかった関係性が発生する(あるいはこれまでの関係性を更新する)。私が恋に落ちることと愛の行為を肯定するのは、しばしば硬直的なものになりがちな日常を組み替える力をもつからである。

 ただし私は第三回の終わりにオタク的恋愛・市場的恋愛と恋に落ちることは本質的な差異はないのではないかという考えを示した。つまりこれらは自然な恋愛、すなわち恋愛と日常のバランスを調和させた恋愛を開始することができないことに対する反応としてとらえた。オタク的恋愛・市場的恋愛では現在の日常の変容に対してあまりに消極的である、あるいは自己防衛的である。一方で恋に落ちることは日常をあまりに性急に変容させる、あるいは破滅的である。

 前回まででおおよそこのようなことを述べてきた。このような分析は確かに幾ばくかの価値があるのかもしれない。しかし結局大事なのは行動すべき時に行動できるか、タイミングを逃すことなく決定的な行動に踏み出せるかなのではあるまいか。本稿では以下でこの問題について考えていく。つまりいかにして決定的な行動、すなわち日常性を逸脱した行動をとることを正当化するかという問題である。

 まず題材として夏目漱石の『三四郎』を扱おう。恋愛について考えている我々にとって夏目漱石は重要な作家である。彼はまさに自由恋愛という概念が西洋近代文学を経由して日本に輸入されてきた時代に活動していた作家である。そして彼は自由恋愛というものへの違和感を積極的に小説の中で描いた。本稿で扱う『三四郎』は恋愛の対象としての女性と対峙することになった男性の戸惑いを描いた作品である。

 『三四郎』は主人公小川三四郎が進学で熊本から東京に上京する物語である。本小説では三四郎の周辺の都市生活や学生生活などが描かれるのだが物語の主軸は三四郎と美禰子の関係の展開に置かれている。三四郎は美禰子に初めて会った時から彼女に恋に落ちる(三四郎自身はそのことをほとんど自覚していない)。美禰子も三四郎を意識しているような素振りをする。それに対し三四郎は美禰子の言動の真意は何なのか、つまり美禰子は三四郎に気があるのかどうか思い悩む。三四郎はいつまでも恋愛に踏み込むことができない。そうこうしているうちに美禰子の縁談が決まり、彼女は金持ちの実業家と結婚してしまう。

 実は三四郎は上京する際に汽車で一緒になった女性と成り行きで同じ宿の部屋に泊まるという経験をしている。三四郎はさっさと寝てしまったのだが、あくる日の別れ際に女性から「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と告げられる。三四郎は激しく動揺し以下のように反省する。

 

 ―元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るのものだろうか。女というものは、ああ落ち付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行ってみると可かった。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云われた時には、喫驚した。二十三年の弱点が一度に露見したような心持であった。親でもああ旨く言い中てるものではない。・・・(『三四郎』新潮文庫p15)

 

 しかし、この三四郎の反省が美禰子との関係で生かされることはなかった。三四郎は美禰子の意図を図りかね右往左往するのみで「行ける所まで行ってみ」ようとしなかった。たしかに美禰子は三四郎に対して好意をもっていたのかどうかは微妙な問題であり読者の間でも見解が分かれる(男性読者は美禰子には好意があった、女性読者はなかったと解釈する傾向があるらしい)。しかしだからこそ三四郎は「行ける所まで行ってみ」て、美禰子の意図を確かめるべきではなかっただろうか。

 いつからか「草食系」という言葉が膾炙した。この言葉は一般には恋愛や異性との交流に対して消極的な様に対して使われている(※注1)。三四郎も現代では草食系と評されるだろう。

 草食系の人々は繊細かつ鈍感である。彼らは他者がどのように感じるか、そして自分が他者を傷つけてしまうことに人一倍敏感である。しかし一方で彼らは自らの主観で他者の考えていることを決めつけがちで、他者が実際のところどのよう感じているかに対しては鈍感である。それゆえ彼らは自らの行動を厳しく自主規制し、そしてそのことをある種の「やさしさ」であると考えるが、これは他者への鈍感さの上に成立しているのである。

 むろん彼ら自身も自らのやさしさが欺瞞的なものであることに薄々気付いている。しかし彼らは思考のループから抜け出すことができない。自らの世界に閉じこもり、リアルな他者に触れることができない。よって彼らはいつまでも恋愛を始めることができない。

 彼らが自らの観念の世界から外に出るための手段こそが「行ける所まで行ってみ」ることではないだろうか。「行ける所まで行ってみ」たとき初めて他者が実際のところ何を考えているのかがわかるのではないだろうか。リアルな他者に触れることができるのではないだろうか。

 ただし「行ける所まで行ってみ」ることと恋愛工学のような確率論とは注意深く分けなければならない。私は恋愛工学のような確率論を恋愛に持ち込むことはクソだと考えている。なぜなら確率的な思考は目の前の他者が生身の人間であり、完全に特異な存在であるという事実を捨象してしまうからである。「行ける所まで行ってみ」ることは一つのテクニックに堕してしまってはダメなのであり、常にリアルな他者を目指すものでなければならない。

 私たちは行動しなければならない。行動しなければリアルには触れられない。しかし一方でこのような行動は周囲との間に少なからぬ摩擦を引き起こしかねないし、自他ともに傷つくリスクを伴うものである。それにもかかわらず私たちは行動することを肯定しなければならない。「行ける所まで行ってみ」ることを正当化しなければならない。そうしなければ私たちは前に進むことができない。

 なぜわざわざ正当化しなければならないのか。それは草食系にとって自主規制的道徳は彼らの日常生活のなかから自然に生まれたものであり、「行ける所まで行ってみ」るという行動原理は人工的なものだからである。この行動原理を受け入れるには自らの中でそれを恣意的に正当化するというプロセスが必要なのである。ではその正当化とはどのようなものになるだろうか。それを次章で示していきたい。

 

(※注1)草食系を考えるうえで恋愛に興味があるが消極的であることと、端から恋愛に興味がないことは分けて考えなければならない。本稿では草食系という言葉で恋愛に興味があるが消極的である人々を指している。ただしこの二つの区別は現実には曖昧であると思われる。なぜなら本当は恋愛に興味があるのに興味がないと自らを偽る、「すっぱい葡萄」パターンもあるからである。


 本章で述べられるのは、「なぜ行動しなければならないか」ではなく「行動においていかなる原理を据えるのか」である。この違いは一見分かりにくいが草食系にとっては重要な意味がある。彼らは行動したほうが(長期的には)有益であることを知っている。つまり彼らは行動するための理由をもっている。しかし彼らは自前の道徳によって自らの行動を自重してしまう。他者を傷つけないこと、そして自分が傷つかないことが優先される。私たちはこのような似非道徳が行動原理として据えられている状態から脱却し新たな原理を求めなければならないのである。

 ここで重視したいのは時間性である。人間は現在にのみ生きているのではない。人はときに過去あるいは未来の視点から現在の自分の姿を捉える。そうすることによって現在の自分の在り様や置かれている環境を相対的に捉えることができる。

 結局のところ現在の行動の意味を最終的に決定するのは未来である。私たちはこの未来の視点を内面化することによって、今ここの自らの感情に振り回されがちな似非道徳から抜け出ることができる。では、この未来からの視点の議論を深めるためにスラヴォイ・ジジェクの議論を参照する。

 ジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』と『事件! 哲学とは何か』においてローザ・ルクセンブルクの議論を参照し、行動と時間の関係を論じている。

 社会主義者のローザ・ルクセンブルクは労働者階級にとって最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」であると述べている。彼らが権力奪取にとっての「適当な時期」を迎えるためにはたんに待っているだけでは生きてそれを見ることはできない。「適当な時期」は、一連の「時期尚早」な企てが失敗した後ではじめてやってくる。

 ジジェクによると、重要なのはこのプロセスにおいて超越的な立場、つまり全体を俯瞰してちょうどいい時期に達するために何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような立場はないということである。それゆえに行動はつねに早すぎると同時に遅すぎる。主体は常に条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒さなければならない。同時にそのような行動が必要とされるという事実は行動が遅すぎたことを示している。

 このような行動に対する考え方は恋愛にもそのまま当てはまるのではないだろうか。私たちが恋に落ちたとき、条件が整うことを待っていても「適当な時期」がやってくることは永遠にない。私たちは性急な、摩擦が生じるような行動をせざるを得ない。一方で私たちは恋に落ちているとき、同時に自らの行動が「適切な時期」をすでに逸した、遅いもののようにも感じる。

 私はこのような行動原理によってこそ草食系は似非道徳的ループを抜け出すことができると考えている。草食系は自らの行動を決定する際に相手がどのように感じているかを過大に評価し、自らのしたい行動を実行に移すための適切な時期ではないと判断する。これはまさに超越的な視点にもとづいてものごとを捉えようとする態度である。しかしこのような超越的な立場は現実には存在しない。草食系は「時期尚早な」行動に踏み出さなければならない。超越的な立場から脈があるかないかとウダウダと悩んでいても脈は決してこない。

 そしてジジェクはそのように「時期尚早」に且つ本気で行動したときに得られる教育的効果についても述べている。労働者階級が本気で政権奪取を目指したとき、そこから得られる教育的効果によって主体は変容する。彼らが自らの行動は所詮時期尚早な行動のプロセスのひとつに過ぎないと理解し、目の前の行動に本気にならなかったら、労働者たちへの教育的効果は失われる。

 この考え方も恋愛にも当てはまるのではないだろうか。私たちが目の前の恋愛に本気でコミットしたとき私たちは変容する。もちろんそれがどのようなものなのかは事前に予測することはできない。しかし目の前の恋愛に本気でコミットしなければ、すなわち自らに行動あるいは精神にブレーキをかければ教育的効果は望めないのである。

 このような考え方は恋愛以外にも当てはまるだろう。この教育的効果とは副産物のようなものである。私は本気で取り組んだ時に得られる副産物こそが人生を豊かにするものだと考えている。私たちはついつい目の前の主要な問題、あるいは損得勘定に目を奪われがちだが取り組む過程で得られる副産物をも計算することを忘れてはならない。

 私たちは奇跡を本気で信じなければならない。ジジェクによると我々にとって耐えがたいことは奇跡が起こらないことではなく奇跡は実際に起こるということである。奇跡を信じるものは何かを手に入れる。奇跡を信じないものは何も手に入れることができない。私たちはぬるく保身的な欲望に惑わされることなく、自らの本当の欲望を追求すべきである。そうすれば仮に自らの元々の欲望が成就しなくても私たちは副産物を手にすることができる。私はいまや恋愛そのものよりもこの副産物こそが本質的なものであると考えている。


 以上が似非道徳にとって代わるべき行動原理である。正直私自身にとっても実現することが難しいものである。しかし私たちに躊躇している時間はない。ジジェク曰く、将来の破滅を回避するための唯一の方法はその破滅を回避することは不可能であることを受け入れることである。将来の破滅がおこる未来の視点から「もしこうしていれば破滅を回避することができたかもしれないのに」という行動を現在に挿入することによってのみ破滅は回避できるのだ。

 

 私の問題意識の根底には「リアルなものにどうしたら触れることができるのか」という考えが常にあった。しかしいまこれまでの連載を振り返ってみるとその目的が達成されているとは言い難い。それどころか私の文章はますます現実から遊離し、空転するばかりである。現実にはほとんどの人が私の考えているようなことを考えることなく日々生活し、恋愛し、結婚し、子どもをつくる(もちろん彼らは何も考えていないと言いたいわけではない)。この圧倒的現実に対して私の文章は藁の家の如く一瞬で吹き飛んでしまう。

 考えれば考えるほど現実から離れてしまう袋小路から抜け出すためにまた考えてしまうのは罠でしかない。常識的な考え方だが、結局のところこの袋小路を抜け出すための手段は、思考と行動を同時に行うことである。

 恋に落ちているとき、思考と行動のズレの問題は先鋭化する。人は恋に落ちているとき相手と懇意になるために事前にあれこれ考えて行動の計画を立てようとする。しかしこれまで他者と仲良くなるという経験のなかで、事前に立てた計画に沿って行動した結果として仲良くなるということがあっただろうか。成り行き任せで仲良くなることがほとんどではないだろうか。どうやら我々はまさにこの人と仲良くなりたい、この人に好意をもってもらいたいと考えると圧倒的に思考が先行し行動を置き去りにしてしまうようだ。

 成り行きで仲良くなることに比べて、成り行き任せでは接点すらないような人と仲良くなることはかなり難易度が高い。成り行き任せで仲良くなるとは適切な時期に適切な行動が自然と行うことができているということである。一方で成り行き任せとはいかない場合の行動は常に遅すぎるか早すぎるかである。遅すぎる場合は仲良くなることはいつまでたってもできない。早すぎる場合にのみ、すなわち時期尚早な行動に踏み切った場合にのみ相手と仲良くなるチャンスを得る。

 もちろんそれは賭けである。しかし負けることのない賭けでもある。たとえ相手と仲良くなることがかなわなくても、恋に落ちたときの主観的経験や様々な教育的効果は私たちの人生を豊かなものにすることに必ず貢献するであろう。私たちが恐怖に囚われさえしなければ人生全体のバランスシートは常にプラスになるのである。

 

 もう一度やれ。もう一度しくじれ。前よりうまくしくじれ。  サミュエル・ベケット

 

新型コロナウイルスについて知ってほしいこと

こんにちは、4月から薬学部5年生になる古田光です。
今回2020年猛威をふるっている新型コロナウイルスについて、自分なりにまとめましたので、皆さんの参考になればと思います。
3/14時点において、日本の新型コロナウイルスの感染者は773人にのぼり、死者は22人となっております。世界では15万6千人の方が感染し、死者は5800人になります。
WHO(世界保健機関)では、3/11に新型コロナウイルスを「パンデミック」宣言。つまり世界的な大流行としました。
これだけ言うと皆さんに不安を感じさせる情報ばかりだと思いますが、新型コロナウイルス感染からの回復者は日本では118人、世界では7万2千人もいます。また、新型コロナウイルスに最も影響を受けた中国では8万人の方が感染しましたが、3月に入ってから感染ピークがおさまり、回復者数も6万5千人にのぼりました。回復の兆しが見えてきたのは嬉しいことだと思います。
日本の政府もそのために学校が休校、ライブやイベントの中止、大型テーマパークの休園などたくさんの対策をしています。この春休み期間は旅行やライブなど色々予定された人がたくさんいたと思いますが、感染が終息するまで辛抱です。

新型コロナウイルスについてですが、そもそも「コロナウイルス」自体は珍しいウイルスではありません。通常のコロナウイルス感染症は、一般的に「風邪」と診断される呼吸器感染症です。気道粘膜に感染することで、咳、鼻水、高熱などの症状を引き起こします。コロナウイルスは、風邪の原因ウイルスの10~15%を占めると考えられています。毎年冬に流行のピークが見られ、ほとんどの人が6歳までに感染し、多くは軽症で済みます。
新型コロナウイルスの主な症状としては、他のコロナウイルス感染症と同じく、咳や発熱などの呼吸器症状が報告されています。通常の風邪による咳や発熱と違う点は、MERSやSARSのような重症肺炎を引き起こしやすいという点です。重症化した肺炎により、呼吸困難などの症状が見られることがあり、命に関わることがあります。しかし、MERSやSARSよりは重症肺炎を起こす可能性は低くなっています。
重篤化しやすい方とは高齢者・糖尿病、心不全、呼吸器疾患(COPD等)の基礎疾患がある方がほとんどであり、該当されるかたは特に気を付けて予防しなければなりません。

その予防ですがまずは、一般的な感染症対策や健康管理を心がけてください。
具体的には、石けんによる手洗いや手指消毒用アルコールによる消毒などを行い、できる限り混雑した場所を避けてください。また、十分な睡眠をとっていただくことも重要です。
また、人込みの多い場所は避けてください。屋内でお互いの距離が十分に確保できない状況で一定時間を過ごすときはご注意下さい。

マスクは、咳やくしゃみによる飛沫及びそれらに含まれるウイルス等病原体の飛散を防ぐ上で高い効果を持ちます。咳やくしゃみ等の症状のある人は積極的にマスクを着用しましょう。ご自身の予防用にマスクを着用することは、混み合った場所、特に屋内や乗り物など換気が不十分な場所では一つの感染予防策と考えられますが、屋外などでは、相当混み合っていない限り、マスクを着用することによる予防効果はあまり認められていません。

マスク不足で悩んでいる人がいましたら、警視庁災害対策課がキッチンペーパーと輪ゴムとホッチキスがあれば簡易マスクが作れるので、良ければぜひ作ってみてはどうでしょうか。

私が目にした間違った情報です。皆さんも気を付けてください
・滅菌ガーゼでマスクを作れば、コロナを殺してくれる。
→そんなことありません。そもそも滅菌とは菌を殺した状態のことであり、つまりそのガーゼが菌がいない状態を表します。菌を殺すわけではありません。マスクとして使っても普通のガーゼと同じです。似た言葉で除菌があると思います。これは菌を取り除く意味であり、アルコール消毒はこれに当てはまります。また、抗菌という言葉もありますが、菌の増殖を抑える意味となります。

・正露丸がコロナに効く
→正露丸の成分にそんな効果ありません。ただの下痢止めのお薬です。

・茨城県で感染者が出ないのは、納豆食べているからだ。納豆はコロナから予防してくれる。
→納豆にそんな成分ありません。予防としては手洗い、うがい、アルコール消毒です。

・イランでは飲酒がコロナに効く
→そんなことありません。アルコール消毒は接触感染から避けるものであり、体内にアルコールを入れたところで意味ありません。

・60度のお湯飲めば、ウイルスは死滅する。
→コロナウイルスはアルコール消毒で感染力を失うことは知られていますが、60度のお湯を飲んだところで、ウイルスは死滅しないし、むしろ気道粘膜を傷つける原因となってしまいます。

薬学部通っているので、よく家族や友達などから新型コロナウイルスついて多くの質問を頂くのですが誤った情報が多いです。SNSやネットの情報が全て間違っているわけではありませんが、その間違った情報一つがすぐ世界中に広まり、多くの人を困らせるのが今の情報社会なんだと強く感じます。
簡単にネットで情報を検索できる今、正しい情報を取捨選択することが大事だと思います。私が今回調べた参考資料は主に日本政府が出している資料を主に使わせていただきました。下記にURLを張っときます。
この新型コロナウイルスからの脅威に皆さんと一緒に乗り越えて行きましょう!

内閣官房:新型コロナウイルス感染症の対策においてhttps://www.cas.go.jp/jp/influenza/novel_coronavirus.html

厚生労働省:新型コロナウイルスに関するQ&A
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html

警視庁災害対策課が推奨している簡易マスクの作り方

四国一周 飛田知樹

私は大学で自転車サークルに所属しています。夏には北海道で合宿をしたり、秋には鈴鹿サーキットで8時間のチーム戦の耐久レースに参加したりしました。これらの活動を通じて、自転車に乗ることの楽しさ、終わった後の達成感を感じることができました。そして、先輩方についていくだけではなく、自らで考え主体的になって自転車の旅に出てみたいと思うようになりました。そこで今年の2月、自転車での四国一周の旅を計画しました。日程は2月23日から29日の一週間です。この旅に出る前に四国一周したことのある先輩から宿の選び方、一日の距離の設定など様々なアドバイスをしていただきました。感謝しかありません。

四国へは神戸から高松まで深夜便のフェリーが出ているのでそれを利用していきました。高松には朝の五時につきました。高松はとても寒く風が強かったですが、ここから旅が始まるのだと期待感でいっぱいだったのを覚えています。その日は、追い風であり初日であったこともあり昼の三時には目的地の徳島県南部の美波町につきました。足湯に入りながら、疲れをいやしたのがいい思い出です。 

二日目は朝の七時に出発しました。この日の目的地は166キロ離れた高知市です。途中おばちゃんにコーヒーでも飲んで頑張れと200円もらいました。人の温かさに触れとてもうれしかったです。

三日目はこの旅で一番肉体的にしんどかった日でした。この日は七子峠という峠を越えました。6キロの坂道を休憩することなく上っていきました。限界を超えるとはこういうことかと思いました。いや、本当に大変でした。

四日目は先輩に清水サバがおいしいと聞いていたので土佐清水市を経由して宇和島市に向かいました。土佐清水市に到着したのは9時だったのですが、清水サバを提供している店が11時開店だったので、そこら辺のおっちゃんと会話しながら待ちました。11時になり入店して、清水サバを刺身で頂きました。おいしかったですが、食べ終わった時刻は1時でこの時点でまだ100キロの距離がありました。タイムリミットは日没の6時まで。しかも、この日は強風注意報が出ていてほとんど向かい風に近いような風が吹いていました。途中の休憩時間は最小にして、急いで向かいました。途中何度も発狂しながらもあきらめずに走り続けました。そのかいあって、何とか6時少し過ぎたあたりで到着できました。ライトアップされた時の宇 和島城を見たときは泣きそうでした。

五日目は宇和島市から松山市までの113キロの道のりでした。この日は相変わらず風が強いものの、天気は良く気持ちよく走ることができました。お昼に食べた鉄板ミートスパゲッティが絶品でおいしかったです。    

六日目は少し寝坊して朝の八時半から走り始めました。途中の今治市では事前に先輩に教えてもらった名物の卵飯をいただきました。とてもおいしかったです。今治市に行かれる際はぜひ食べてみてください。この日は結局、愛媛県東部の四国中央市まで121キロ走りました。

最終日の七日目は出発地、高松市まで漕ぎました。この日は天気予報で午後から天気が下り坂になると聞いていたので少し早めにスタートしました。帰りはこの日の16時の高松港発のフェリーなので、14時には高松につくよう走りました。さすがに最終日なので全身に痛みやけだるさを感じながら、初日に比べると時速5キロも遅い速さでなんとか進めて行きました。丸亀市に入ったあたりから、雨が降り出してきたので、雨具に着替えました。そして、漕ぎ続けているとついに高松市に入りました。ここで少しガッツポーズしてしまいましたが、ここから高松港がある市内中心部まではまだ10キロ近くあります。これが、なかなか遠いんです。途中、合羽を着て自転車に乗っている高校生に親近感を抱きながら市の中心部に向かいました。そんな感じで走ること30分、ついにゴールの高松港にたどり着きました‼たどり着くまでは辛いこともたくさんあったけれど、達成感で胸がいっぱいになりました。一人で行い精神的にも厳しかったからこそ、大きい達成感を得ることができたのだと思います。そのあとお昼ご飯を食べたりしてから、16時発のフェリーに乗り込み四国を後にしました。

最後になりますが、この旅はいろいろな人の方の支えがなければ達成できなかったと思います。本当にありがとうございました。

 

 

 

本当に四国一周楽しかったー―――――――――!!!!!!!!!

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)part3

 第3回 愛についての考察
                                                    賀戸佑丞
 

  今回のテーマは愛である。漠然とした捉えどころのないテーマだが、やはり恋愛について考えるうえで避けては通れないテーマである。愛のない、あるいは志向しない恋愛とは恋愛の名に値しないものだろう。逆にラカンが言うところの愛の最も崇高な瞬間、すなわちこちらの差し出した愛に対して相手が愛で返す瞬間が一度でもあれば、その恋愛は永遠に記憶に残る素晴らしいものになるだろう。

 愛について考えることの必然性を強調したが、私の乏しい人生経験ではすべて自分の言葉で愛について語ることなど無理な話である。よって例のごとく、ここでも先学の力を借りたいと思う。本稿ではラカンによる愛の定義「愛とはもってないものを与えることである」というテーゼを起点にして愛について検討していきたいと思う。このテーゼはラカンによるその他のテーゼと同じく抽象的かつ多義的である。よってここではこの愛の定義を自分なりに言い換えてみたいと思う。それは『愛とは「もっていないこの私がそれでもあなたのために何ができるか」という問いに対する答え、あるいは答えようとすること』である。

 具体的な場面を想像してみよう。親が子どもからおもちゃをねだられるがそのおもちゃを買う金銭的余裕はない。そこで親は自らの創意工夫を込めた代替物を子どもに与える。私たちはそのようなシチュエーションに親からの子どもへの愛を感じないだろうか。(注1)

 

(注1)ジジェクによると子どもが親に対して「なぜ空は青いのか」などと答えようのない質問や無理な要求をするのは、単に知的好奇心からだけではなく親の無能を暴くためであるという。本章の議論につなげると子どもは親が自らの無能を暴かれた後に何をするのかを見ようとしているのではないだろうか。子どもは親の愛が顕現するためのスペースを開こうとしているのである。よって子どもの要求を常に文字通りに実現してはいけないのである。そのような対応は愛が顕現するためのスペースを潰してしまうことになる。そして同じことがあらゆる人間関係に対しても当てはまるであろう。ラカン曰く「あらゆる要求は愛の要求である」。

 

  愛の行為は多くのフィクションに見出すことができる。その例としてまず、やなせたかし原作『アンパンマン』を取り上げよう。アンパンマンはお腹を空かせ困っているひとに出会うとアンパンでできた自らの顔の一部をちぎって差し出すことで有名である。この行為は本稿での愛の定義に当てはまる行為である。アンパンマンは自らの所有物を差し出しているのではなく、自身の一部を差し出しているからである。さらに顔が欠けるとことによって自らの力が弱まるという事実がこの行為を一層崇高なものにしている。 
 
 もしアンパンマンがパトロールの際、事前にお腹を空かせたひとが現れることを見込んでパンを準備し、そのパンを配るようにしていたらどうだろうか。その場合にはアンパンマンはいいひとではあるが、愛の行為の実践者とはならないだろう。つまり愛の行為とは事前に計画して、そして余裕をもって為されるようなものではないのである。
 
 このようにフィクションにみられる愛の行為を検討していくことは、愛についての理解を深めていくのに有効である。次に取り上げたい題材は新美南吉『ごんぎつね』である。凡そのあらすじはほとんどの読者が知っていると思うが、本稿にとって重要だと思われる部分を中心に簡単にまとめておこう。

 いたずら好きの「ごん」と呼ばれる子ぎつねは兵十が長雨で増水した川から獲ったばかりのウナギを逃がす悪戯をする。後日、「ごん」は兵十の母が亡くなったことを知り、あの時逃がしたウナギは兵十が母に食べさせようとして獲ったものだと解釈し罪悪感を感じる。そこで「ごん」は償いとして栗や松茸などを兵十の家に毎日届けるようになる。兵十は「ごん」が届けたものとは知らず神様のしわざと考えるが、そのような兵十に「ごん」は苛立つ。最後には「ごん」は食べ物を届ける姿を兵十に見つかり、銃で撃たれてしまう。この時兵十はこれまでの贈り物が「ごん」によるものであったことを知り、そして「ごん」はそのことをうれしく思いながら死んでいく。

 以上が『ごんぎつね』のあらすじである。この作品は様々な視点から解釈が可能であるが本稿ではもちろん愛の行為という視点から『ごんぎつね』を検討していきたい。

 『ごんぎつね』ではまず最初にあらわれる愛の行為は兵十によるものである。兵十は死にゆく母のために、増水した危険な川に入りウナギを獲っていたのである。しかし「ごん」がこの愛の行為を悪戯によって妨害したため、兵十は母にウナギを食べさせることができなくなってしまう(「ごん」は少なくともそう考えた)(注2)。「ごん」はそのことによって罪悪感を感じ、毎日兵十に贈り物をすることになる。この「ごん」の行為、毎日食べ物を人家まで運ぶという行為は愛の行為と言えるだろう。しかし(注2)で検討したようにこの愛の行為の達成は単に食べ物が届けられることによってではなく、兵十が「ごん」から愛を受け取ることによってである。つまり「ごん」の愛の行為が達成されたのは兵十によって「ごん」が撃たれた場面である。兵十がこれまでの贈り物の主が「ごん」であったことに気付くことによって「ごん」の愛の行為は達成されたのであり、そうであるがゆえに「ごん」はうれしくなったのである。

 ここで『ごんぎつね』のその後を想像してみよう。おそらく兵十は「ごん」を撃ち殺してしまったことに罪悪感をもつだろう。それは殺してしまった小動物に対する憐みのような感情とは異なるものである。それは「ごん」からの愛の行為を受け取ることに失敗してしまったことからきている(少なくとも兵十は失敗したと考えるだろう)。兵十がこの罪悪感を軽くするための方法は「ごん」を固有名として弔い続けることである。

 以上の検討を通して『ごんぎつね』から愛について以下のことが読み取れる。他者の愛の行為を妨害したり、受け取ることに失敗すれば、象徴的な借金を背負うことになるということである。この象徴的借金を返済するための唯一の方法は自らも愛の行為を行うことである。『ごんぎつね』は愛の行為の失敗の連鎖の物語なのである。

 しかし仮に愛の行為をうまく受け取ることができた場合においても、愛の行為に見合う返礼は愛の行為しかない以上やはり愛の行為を行わなければならない。つまり、愛の行為は必然的に連鎖していくのであり、ひとつの愛の行為は次の愛の行為を生み出すのである。

 このテーゼからはいくつかの現実的な教訓が引き出せるだろう。他者から愛を与えてもらうための蓋然性の高い方法は自分から他者に愛を与えることである。そうすれば他者は応答として愛を与えてくれる(かもしれない)。

 もうひとつは愛の行為を行う力のない者、あるいは行う気のない者は愛から遠ざかっていくということである。これは他者が愛を与えてくれないということだけでなく、自らそのような愛を贈与しあう関係から距離をとっていくということでもある。返礼を返すことができないものを受け取ることは心苦しいものである。ゆえに愛の行為を行うことができない者は愛の贈与の関係に入ることを躊躇するのである。

 ここでなぜある種の人は愛の行為を行うことをためらうのか、そしてなぜ一般的にも愛の行為には独特の重みが生じるのかを考えてみよう。これは愛の行為に対する理解を深めるうえで重要な問題である。この問いに対する私の考えは、「愛の行為は究極的には常識や慣習に頼ることができず、その人の核のようなものを晒してしまうからである。」というものだ。愛の行為は普段我々が従っている日常生活を円滑に安全に進めるためのプログラムには規定されていない行為であり、プログラムから見れば存在しないはずの行為である。ゆえに愛の行為とは人間の根源的自由に基づくことになる行為である。そしてその行為の責任は自らが全面的に引き受けることになる。愛の行為へのためらいとは自由と責任を引き受けることへのためらいであり、すなわち絶対的「個」の存在であるところの私を引き受けることへのためらいなのである。

 脱線しつつある流れを本題に戻そう。我々はここまで『ごんぎつね』を題材に検討を行ってきた。ここまでで見えてきた愛の行為は大衆文化で流通しているような愛とは少し?違っていることに気付いただろうか。愛の行為とは大衆文化でも見られるような美しさ、尊さを湛えている一方で、関係したものを愛の贈与のネットワークへと引き込み、そして愛の行為の連鎖へと巻き込んでいく。このような愛の不気味なあるいは厄介な側面については一般的にはあまり触れられないが、この側面を抜きにして愛についての包括的な理解は不可能であると考えている。

 

(注2)ここで兵十の母への愛の行為は失敗してしまったのを考えてみたい。常識的に考えればウナギを母に食べさせることができなかったので失敗しているように見える。しかし、「あらゆる要求は愛の要求」なのであり、ウナギそのものは究極的にはどうでもいいのである。この愛の行為の成否はウナギを食べさせることができたかどうかではなく、母が兵十の行動から愛を感じることができたかどうかにかかっているのである。

 

 

 私たちは愛の行為の不気味で厄介な次元についてさらに検討していく。そのための題材としてチャールズ・チャップリン監督主演の『街の灯』(1931)を扱いたいと思う。

 この映画のあらすじを簡単にまとめると「チャップリン演じる浮浪者が喜劇的な方法で大金を手に入れる。浮浪者はそのお金を貧しい盲目な花売りの女性に渡す。そして女性はそのお金で手術を受けて視力を回復しさらに自分の店を持つようになる。」というものである。本稿において重要なのは二人が再会するラストシーンである。よってこのシーンを詳述していく。

 浮浪者はお金を渡した後逮捕されていたので女性のその後を知らない。そして女性は盲目であったのでお金をくれたのが誰なのかを知らない。よって彼女は自分にお金をくれた人は富豪であったと思い込み理想化されている。そのような状況で、出所した浮浪者は自身の店で楽しそうに働いている女性に偶然再会する。女性は浮浪者に対し、情けから花とわずかばかりの施しを行おうと店先に出る。浮浪者は慌てて逃げようとするが女性の呼びかけによって立ち止まり、おそるおそる花を手に取る。そして女性が施しを握らせようと彼の手に触れた時、彼女は自分にお金をくれたのはこの浮浪者であったことに気付く。女性は困惑の表情を浮かべる。

“You can see now?”

“Yes, I can see now”

彼女は自分にお金をくれた男の正体を見たのである。この後浮浪者の不安と期待の混じったような、恥ずかしそうな微笑みのクローズアップで映画は終わる。

 このラストは一見最後に奇跡的な再会を果たしたハッピーエンドのようにも見えるが少し考えてみればかなりあいまいな終わり方であることがわかる。特に注目すべきは女性の困惑の意味である。普通に考えればこの困惑は彼女の中で理想化された、すなわち白馬に乗った王子様のような存在になっていたお金をくれた男が実際には浮浪者であったという事実から来ているように解釈できる。しかしこの困惑にはもう一つの意味が含まれているように思われる。それは、「なぜこの浮浪者は浮浪者の身の上であるにもかかわらずこの私に大金を渡したのだろうか」という困惑である。浮浪者の行為は富豪の施しとは違い、もってないものを与える愛の行為であった。そしてそれゆえに女性からすれば浮浪者が何を考えてそんなことをしたのか理解できず不気味なのである。

 ここでジジェクによるラカンの愛の定義の補足を参照してみる。「愛とは自分の持っていないものを与えることである。—それを欲していない人に」。それゆえに愛の行為は最終的には好意的に受け取られるとしても受け取る側に困惑をもたらす。愛の行為は常に受け取る側の予測を超えたものであり、当初より望まれていたような行為でない。

 多くのフィクションでの愛の描き方はこのような不気味さをみるものに感じさせないようになっている。そして私たちの日常でも慣習や通俗的な道徳にどっぷり浸かることによって愛の行為の不気味さに直面しないで済むようになっている。例えば恋人間での愛や親子の愛などにも不気味な次元は存在するが、私たちは現実を常識、道徳、物語を通して解釈することでそのような不気味さに直面することなく平穏な日常を送ることができているのである。

 余談になるが『街の灯』のラストシーンのその後がどのような展開になるか考えてみよう。この映画がハッピーエンドになるには浮浪者からの愛に対して女性が愛で返さなければならない。それは少しばかりの施しくらいでは到底足りない。通俗的ハッピーエンドのためには浮浪者と女性が結ばれる(女性が自身を差し出す)ことが必要に思われるが、映画ではそれを予感させる描写は存在しない。

 また浮浪者側からすれば話はより複雑である。ひとは相手との関係を築く際には相手にとって自分は何者なのかを規定することによって相手とうまく関わることができるようになる。浮浪者の場合、彼は自分を貧しくて盲目な可哀そうな女性を助ける存在として規定したはずである。映画では浮浪者は女性を助けることができたが、このとき彼はそのことによって女性に対する自らの役割を失うことになる。もはや健康的で自立した女性に対してできることは浮浪者にはない。彼は何の役割も担えないただの浮浪者そのものになってしまったのである。ラストシーンの浮浪者の恥ずかしそうな微笑みはもはやただの浮浪者でしかない姿を女性に晒してしまっていることからきているのである。

 このような状況において浮浪者の態度はアンビバレントなものになっている。このことは女性が花を渡そうとして近づいたとき、浮浪者が一旦逃げようとするが女性の呼びかけにすぐ立ち止まったことに表れている。浮浪者は女性に対してかつての恩人がただの浮浪者であったことを知られたくないが、しかしお金を渡したのは自分であったことに気付いてほしくもある。結果的に女性は目の前の浮浪者の正体に気付くことになるが、その時浮浪者の愛の行為は完遂されることになる。『ごんぎつね』のラストのようにお金をくれた人が誰だったのかを知ったとき女性は愛を受け取ることになる。同時に女性は愛の行為を受け取ったものという立場に立たされる。つまり女性は愛の行為の連鎖に巻き込まれる(もちろん愛を返さないことによって拒絶することもできる)。

 以上の検討を踏まえると、二人にとってラストシーンで再会することがよかったのかどうか微妙なところである。二人が再会しなければ映画内での一連の出来事はただ美しい思い出として記憶されていくことになっただろう。しかし再会によって過去の出来事の意味は変わる。浮浪者の匿名的な、人助けとして完結していた行為が愛の行為となる。そして新たな問題の出現、つまり女性は私の愛を受け取りそして愛で返してくれるのか否か、あるいは私を承認してくれるか否かが問題となってくる。

 この後の展開はおそらく女性は愛で返すことができず、そして浮浪者は自らの役割を再び見出すことのないまま二人は別れていくのではないだろうか。偶然二人が再会し、浮浪者の過去の行為が愛の行為へと変質したことによって、この映画は切なくそしてやりきれない感情を抱かせる作品になっているのである。

 

 本稿のまとめに入っていこう。ここまで考察によって愛についての包括的理解に向けてのヒントは手に入ったと思う。愛とは一般的には特定の他者(その他者の範囲はどこまでも拡張可能である)を大切に思う気持ち、慈しむ気持ちだと理解されており、愛の行為とはそのような感情に基づいた行為ということになる。本稿ではラカンのテーゼから始まり、愛を「もっていないこの私がそれでもあなたのために何ができるのか」と定義して展開してきた。この定義は一般的に考えられている愛に比べて限定的で実行が困難なように思える。しかしこの定義によって私たちは様々なフィクションのなかに現れる愛に対してより深い考察を行うことができたと思う。

 私は本稿で愛の厄介な側面を強調してきた。愛の行為は主体の絶対的自由と無限の責任に基づく行為である。そしてそれを受け取った者は事前にそれを望んでいたわけではないにもかかわらず、愛の贈与の連鎖へと巻き込まれてしまう。このような愛に対する理解は一見ネガティブなものに見えるが、しかし私は愛のこのような特質こそ愛のもつ力、可能性の源泉であると考える。では愛のもつ力、可能性とはなんなのか。

 それは「システム」による硬直性を動揺・撹乱させ新たなダイナミズムを生み出す力である。ここでいう「システム」とは法、制度、常識、慣習、道徳など私たちが多くの他者と関わりながらも円滑に、そして安全に日常生活を送ることを可能にしているものである。ただし、ここで注意しておきたいのは「システム」はただ形式的・無機質なものばかりではないということである。私たちの日常生活の多くの行動は「システム」に基づいていようとも、私たちの内面では他者への配慮や思いやりの感情を感じている。しかしこれらも円滑な日常生活のための合理性の内にあるという意味では私は「システム」として扱っている。

 愛と「システム」は現実には相反するものではなく相補的な関係にある。「システム」は当然私たちが生きていくうえでなくてはならないものである。私たちは無秩序の状態を長く生きていくことはできない。しかし「システム」は完璧なものではない。時には外部からあるいは内部の要因から「システム」は機能不全に陥る。また「システム」は人間の生活の実情や感情をすべて汲み取って機能しているわけではない。あくまでも「システム」の目的は世界の安定であり、そこでは人間は自己保存を義務付けられた自動機械に過ぎない。愛の行為とは不合理で過剰さを含んだ「システム」から逸脱した行為であるが、上記のシステムの欠陥を補う力をもっている。愛の行為は「システム」から抜け落ちたものを救済する働きがあるのである。(ただしあまりに「システム」から逸脱しすぎたり、逸脱が長期間に及ぶと「死」に近づくことになる。)

「システム」は究極的には交換や反復不可能なものを恰もそれが可能であるかのように見せかける働きをする。その疑似的な交換・反復のなかで私たちの「個」の存在の重さは欠落してしまう。私たちは普段「システム」の自動機械として振る舞いそのことに鈍感である。しかし絶対的自由と責任に基づく愛の行為は私がまさに「個」の存在であること、そして行為を受け取る相手も同様に「個」の存在であることを思い出させる。愛の行為のもつ人を巻き込んでいく力は「システム」による偶然的で交換可能な人間関係を必然的で交換不可能なものに変えていく。

 

 最後に前回、前々回の内容を愛と「システム」の概念で整理してみたいと思う。私は過去に「オタク的恋愛」と「市場的恋愛」、そして恋に落ちることについてまとめた。「オタク的恋愛」と「市場的恋愛」は「システム」に過剰に依存することによって成り立つ恋愛である。一方で恋に落ちることは「システム」をすっ飛ばして愛の行為に向かおうとする恋愛である。ではそれぞれについて詳述していく。

 オタク的恋愛ではコンテンツへの愛、情熱はほとんど画一的方法で表現される。オタクたちの愛でる対象となるコンテンツは市場から供給されオタクたちはその消費者である。そこではコンテンツへの愛は商品の購入という形で表現されることになる。また彼らのネット上に書き込むコメントの語彙は独特で且つ定型的なものである。たしかに私はオタクたちの情熱が偽りのものだとは思わないし、その画一性は効率的な感情表現という意味では洗練されたものであると言える。しかしオタクたちの行動は匿名性を志向し、「オタク」はどのように振舞うかを参照することによってこの「私」を消し去ろうとする。

 オタク的恋愛では市場から供給されるコンテンツやそれを愛でるオタクたちも交換可能なものでしかない。彼らは匿名的でいつでも切断可能な関係性に留まることによって得られる気楽さを享受している。しかしそのような関係性は自ら責任を引き受けるという重荷を背負うことは回避できても、自らの実存的欲求は永遠に満たされることはない。

 市場的恋愛の話に移ろう。市場的恋愛とは主に婚活のような、企業などが提供するサービスによって日常では不可能なほどの膨大な数の人を比較検討することができる環境のなかで行われる恋愛である。そこでのプレイヤーは自らを商品として自覚し、その価値を高めるよう動機づけられる。同時にほかのプレイヤーに対しても同じような視線を向けることになる。そこで差し当たっても問題になるのは自分と相手がどのような属性やスキルをもっているかということになる。

 よって市場的恋愛は就活のようなものである。就活生は自らの選好と同時に自らのもっている属性・スキル考慮して企業を選ぶ。この時選ばれるのは身の丈にあっているか、少し上の企業だろう。そして面接のときにどの企業に対しても「御社が第一志望」と答えながら、裏では冷静に企業の比較と順位付けが行われている。市場的恋愛ではその市場的環境によってプレイヤーは必然的にこのような思考を行うことになる。

 市場的恋愛では企業などが提供する「システム」によって円滑に、安全に恋愛を始めることができる。そしてプレイヤーたちのパートナー選びに失敗したくない、最良のパートナーを選びたいという願望を叶えてくれるかのように見える。しかし、そこでは生身の人間に対して冷静な比較のまなざしを向け、そして向けられることになる。そして自分の希望に近い相手を見つけたとしても、環境が「もしかしたらまだいい相手が見つかるかもしれない」という考えを抱かせる。

 このように市場的恋愛ではプレイヤーたちは「システム」によってお互いを交換可能な存在として扱い、扱われることになる。これが現実の労働市場の話なら仕方のないことだが、恋愛や結婚の相手を見つける手段としては間違っているように感じられる。

 しかし私は、市場的恋愛を完全に否定するつもりはない。これまでで述べたように愛の行為は「システム」の欠陥を補う働きをする。だから市場的恋愛において最初は交換可能な関係性でも、愛の行為によって交換不可能なものに変質させることは可能であると考える。もちろんプレイヤーがお互いに「もっているもの」にばかり目を奪われれば愛の行為は行われないか、行われたとしても気付かれることはないだろう。つまり市場的恋愛では「システム」によって始まった恋愛をいかに愛の行為で必然的なものにしていくかが重要になるだろう。

 最後に恋に落ちることについての話に移ろう。恋に落ちるとは恋愛に入っていくうえで前提となると考えられているものをすっ飛ばして相手のことを好きになることである。そして場合によっては互いの現状の関係性を度外視して一気に愛の行為へと向かおうとすることもある(『街の灯』の浮浪者がそうであった)。

 恋に落ちるということそのものが「システム」からの逸脱であるといえる。恋に落ちるとはいきなり稲妻に打たれるようなものであり、そして日常生活の円滑な進行が阻害される。世界の見え方が変わり、ものごとの優先順位が変わる。

 恋に落ちたものは何とかこの逸脱状態から安定した状態にもっていこうと考える。すなわち相手と恋人どうしになり恋愛を始めることによって自らの精神と相手との関係性に安定をもたらそうとする。恋愛も文化的産物である以上ある種の「システム」として考えることができる。

 しかしそもそも恋に落ちることと相手と恋愛が始まること(ここでは互いに好きどうしになるという意味である)は必然的なつながりがあるわけではない。恋に落ちるとはこちらが勝手に稲妻に打たれただけであり、相手から見れば知ったこっちゃない話である。しかしそれでも、もしかしたら恋愛が始まるかもしれない。日常の正常な進行ではありえないことが愛の行為によっておこるかもしれない。恋に落ちたものはこの奇跡を信じるしかない。

 

 本当に最後のまとめである。オタク的恋愛は「システム」のもたらす疑似的な万能感や匿名的な気楽さに安住したものである。市場的恋愛では「システム」を利用することで同様に疑似的な万能感を味わいながらも皆が比較のまなざしを向け、向けられる。ただし、パートナーを見つけた後は交換不可能な関係性を築くことによって「システム」の弊害を乗り越えることができる。恋に落ちることはそれ自体システムからの逸脱である。恋に落ちたものは恋愛という「システム」を目指し安定性を回復しようとするが実際のところその望みは薄い。

 本稿で改めて整理しなおした三つの恋愛はどれも愛と「システム」のバランスが悪い。以前はオタク的恋愛・市場的恋愛と恋に落ちることをはっきりと分けようとしたが、現在ではこれらに本質的な違いはあるのかどうか自分の中で揺らいでいる。私は前回自然に仲良くなり自然に恋愛が始まっていくようなタイプの恋愛は想像がつかないと書いた。まさにそのようなタイプの恋愛こそが愛と「システム」のバランスのいい恋愛なのではないだろうか。三つの恋愛は愛と「システム」を調和させることができない、あるいは失敗したことからきているのではないだろうか。

 理論的な検討は今回で終える。次回はこれまでの内容を踏まえたうえで、ではどうすべきなのかを考えていきたいと思う(依然抽象的な話になると思う)。

 

前回の投稿から大きく日にちが開いてしまいました。申し訳ないです。冗長な文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

2年間お世話になりました!

こんにちは。大阪IT会計専門学校大阪校に通っておりました、
柳楽和也と申します。
今週末に退寮するにあたって、二年間の振り返りやちょっと前にした旅行のことなど書いていこうかなと思います。
私がこの大阪で暮らすにあたってまず一番不安だったことを今でも思い出すことができます。それは、急に大阪の環境にさらされて体調を崩さないかと思っていたことです。まぁ、杞憂であることは一か月も住めば解消されたものではありましたが、「行かないままで不安が募る状態」というものは実際に経験するまでにはずっと続くものであると実感した思いです。
私がこの大阪で2年間過ごしたことは、経験としてはありふれたものではあるかもしれませんが、島根にいるままで過ごす2年間よりずっと刺激的で、少しだけでも島根を出れてよかったと思えるものでした。これらの経験をくれた寮の仲間や学校の仲間に最大の感謝を送りつつ、私は社会人としてこれから頑張ろうと思いました。

さて、話は変わりますがこの前に少しばかり旅行したことをお話ししたいと思います。
まずどこに行ったかというと、兵庫県の神戸に行ってまいりました!そこで、関西に来たらずっと行きたかったところに、友達と二人で行ってきました!皆さんは、「風見鶏の館」という場所を知っていますか?私も名前自体は最近知ったのですが、この場所は、私が愛してやまない作品「Fate stay/night」の登場人物の住居の舞台になっている館なのです。作品のことを語りつくすと枠がとんでもないことになるので割愛いたします。この場所は、ドイツの貿易商であった方が、神戸に住んでいるときに建てた屋敷だそうです。このように一般向けに展示されたのは最近らしいですが、とても興味深い内容でした。昔の朝ドラ「風見鶏」の舞台であったということをこの館内の資料で知ったのですがそちらのほうが有名でしょうか?生まれる前のドラマなので私は存じ上げないのですが今度帰省したら親に聞いてみようかなと思いました。こうした聖地巡礼を目的としてではなく、歴史的な建造物としても、景観としてもとても素敵な場所なので、興味を持った方はぜひ行ってみてほしいなと思います。

最後になりますが、私は大阪に来れてとても良かったし楽しか言ったと思っています。繰り返しにはなってしまいましたが、感謝してもしきれないので今のうちに思いを伝えておこうかなと思いました。それでは、2年間お世話になりました。

すみません、横向きになってしまいました・・・

2019年度 追いコン!

こんにちは。会長の坂根です。2/15(土)に追いコンがありました。毎年この頃になるとやっぱり寂しくなります。一緒に今年度の自治会を運営してきた後輩や一緒に遊びに出かけた友達、話を聞いてくださった先輩など...。この機会にと、たくさん話しかけました。
 そういえば、今年度から寮内イベントの際、オードブルやピザを注文するようになったんですよ。これが大変寮生に好評で、寮祭の時には足りないなんていう事態も起きました。追いコンで同じことが起きないようにとオードブル5セット、ピザ8ホール注文しましたが、なんと今回はかなり余る事態に(笑)。今回は皆さん、お酒が進んだんでしょうね。今後も最適な量を模索していく必要がありそうですね。
 毎年、退寮生にはプレゼントを渡しています。今年は「箸」です。しかもネーム入りなんです。執行部の中でこの案が出まして、即採用となりました。私も欲しいと思っちゃいました。
 ご飯もプレゼントも好評で、これといったアクシデントも起こらず今回の追いコンも幕を閉じました。私たち在寮生に出来ることは、退寮する人たちに、少しでも楽しい時間だったと感じてもらえるような空間を作ることだと思っています。どの程度達成できたかはわかりませんが、良い思い出として残ってくれたら嬉しいです。
 離れ離れにはなってしまいますが、また別の形で今後とも関わりたいです。改めて皆さん、それぞれの進路で頑張ってください!

今ある環境を大切に

お久しぶりです。会長の坂根です。更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
 最近は大学のゼミが急に忙しくなったり、人との関わりあい方がうまくいかなかったりと悩みの多い日々を送っています。自分が率先して動かなければならないときにできておらず、毎日反省の日々を送っています。
 そんな時、寮にいる友達に話したり、相談したりすると、自分とは違った考えや自分では思いつかなかったことに気づかせてもらうことがあります。そのたびに、「話を聞いてもらってよかった。」「寮という環境は素晴らしい。」と感じるのです。最近では男たちで集い、外食に出かけることや談話室で、お酒で乾杯することも増えました。このような機会を通じてますます交流が深くなっていると感じています。また、みんなと和気あいあいとしている空間にいるとその度に、「一時一時を無駄にしてはならないな。」と思うのです。
 寮生活という、通常とは少し異なった環境ですが、この環境だからこその強みがあると思います。今ある環境を大切に。これが私の今年のスローガンです。

島根の良さを再認識!

こんにちは。会長の坂根です。11/30に今年最後となる定住財団イベント「しまねタイムin大阪」が開催されました。今回は、松江山本金属株式会社の代表取締役社長である山本泰三さんと県外出身しまね大好きユニット「ヘイソン・ニャー」として活動されているヘイ子さんとソン子さんをお招きしてお話をしていただきました。
 山本さんは大阪人なのですが、会社設立の際に広大な土地を必要としていた時に偶然島根県が目に留まったとのことでした。私たちが当たり前のように目にしている自然や景色が山本さんには新鮮に感じられ、島根県に魅了されていったと話していただきました。「過去、都会は最先端の情報を得られるという点で有利な場所であった。しかし、今やスマートフォンで都会の情報が得られるだけでなく、海外とつながることもできるようになった。だから現在において、今までのようなメリットは都会にはほとんどない」。これは山本さんがおっしゃったことの中で個人的に最も響いたお話でした。ヘイ子さんは宮城県、ソン子さんは香川県出身なのですが、お二人とも偶然島根大学に進学したことから島根との結びつきが強くなったといいます。ヘイ子さんは現在漫画やイラストなどの創作活動、大学教授秘書、ブティック店員の3つの仕事をこなしておられる方で、「複業」と「副業」の違いや現在あまり認められていない”フクギョウ”の実態について語っていただきました。ソン子さんは女性の目線から子育てとの両立や漫画家という、自らの夢を追い求めることについてお話していただきました。私も生まれが香川県で絵を描くことが好きなので、勝手ながら親近感を感じてお話を聞かせていただきました。

 3人の方々のお話に一貫していたことは、島根の人の当たり前は県外の人から見るととても興味深いということ、故郷である島根をもっと好きになってほしい、ということでした。
 現在私は大阪で過ごしていますが、今回、島根県のことを考える良い機会となったと思います。私たちの故郷、島根の魅力を皆さんももう一度探してみませんか。

毎年恒例 寮祭!

こんにちは。会長の坂根です。11/16に令和初の寮祭を開催しました。今年も寮生の多くが参加し、お酒やお菓子などを広げ、場は大いに盛り上がりました。また、この記念すべき回に、後援会前会長の村田さん、新会長の大谷さんがいらっしゃり、私たち寮生に今後の展望、生き方などについて語っていただきました。私も将来、現在自分が学んでいることを生かすことができるかどうかなど、この機会に多くの相談に乗っていただきました。今後自分がどうあるべきであるか、再度考える良い機会となりました。

最後に、飲み会ではテンションが上がりがちですが、みんなが楽しい時間を過ごせるよう、飲酒はほどほどにして、今後のイベントも楽しみましょうね。(笑)

令和元年 近畿島根県人会

こんにちは。会長の坂根です。11/9に令和初となる近畿島根県人会が催されました。こちらには、毎年島根県の役員の方や島根県内立地企業の方々が招かれ、ふるさと島根のより一層の発展のためにと、もうけられた交流の場となっています。私も去年に引き続き参加させていただき、たくさんの方々とお話をさせていただきました。特に、注目を集めていたのは、今回の会のご挨拶をしていただいた島根県副知事の藤原孝行さんと現在はプロ野球解説者であり、元プロ野球選手の梨田昌孝さん、映画監督を務める錦織良成さんでした。お二人ともフレンドリーに接していただき、写真撮影も快く引き受けていただきました。また、毎年豪華な食事が並べられ、寮生みな喜びの声を上げていました。多くに方々から、大阪学生会館の寮生であることを知らせると大変歓迎され、「ぜひ来年も来てください」と、ありがたいお言葉をいただきました。このような機会はめったにあるものではありませんので、是非来年も参加させていただきたいと思います。

物事のとらえ方、考え方、生きい方

7月20日(土)に安達宏昭さんをお招きし、物事をどのように捉え、考え、生きてゆけばいいのかを伝えていただきました。
 5月25日にお招きした際は、安達さん本人の生い立ちを追っていいき、将来の自分の道の切り開き方について伝えていただきました。今回は、タイトルこそ抽象的ですが、具体的には他者との関わり方、自分との向き合い方について学ぶというものでした。今回実践したのは、ネガティブなものをポジティブなものに変換することでした。例えば、「怒りっぽい」→「情熱的だ」「人見知り」→「人との距離感を適切に測れる」など。安達さんが言うには「日本語はネガティブな表現であらわされることが多い」とのことです。これには思わずうなずきましたし、実際、このポジティブ変換は思っていた以上に難しかったです。同じ物事でも、捉え方には二面性がある、ということを痛感しました。
 また、「気づく」ことの重要性を説いていただきました。現在、メジャーリーグで活躍中の大谷翔平選手の、高校当時の目標を書き綴った、通称「9マスシート」を見せていただきました。最終目標である「ドラフト1位」を達成するために必要なことを周りに書き、そしてそれらを達成するために必要なことをさらに周りに書いていくものでした。こうして書き綴っていくことで、自分のことが見えてくるというのです。私も含め、意外と自分のことはよくわかっていないものです。こうして字におこすと様々なことに気づくことができるかもしれません。
 こうした「気づき」を大事にしてほしいと強く主張されました。皆さんも一度「9マスシート」と検索し、作ってみてはいかがでしょうか。
 安達宏昭さん、お忙しい中貴重なお話をしていただきありがとうございました。

令和最初の納涼祭

こんにちは、二回生の柳楽です。今年も納涼祭を開催しました!

夏休み期間中ということと、自費での参加ということで参加者は少なかったですが、少ないなりにいろんな話に花が咲き、楽しい時間を過ごせたのではと思います。

ゲストとして、去年まで寮にいた薩摩さんと米原さんも、この納涼祭に参加しに来てくれました。薩摩さんは幼稚園のころからの付き合いだったので、僕としても久し振りに会えて楽しかったです。

僕は今年で退寮するので、実質最後の納涼祭だったのですが、皆でこうしてするイベントそのものが最後というわけではないので、その実感はわきにくいですが、しかし一年の時間の流れの速さを感じずにはいられません。残されたイベントを惜しみなく皆で楽しめるようにこれからを過ごしていきたいと思います。

除草作業

5月26日に除草作業を行いました。この日は例年を大きく上回る気温32度!そのため、早めに終えれるようにと、副委員長の提案で一時間半早く開始することにしました(遅起きの男子からは少々のブーイングが来ましたが…)。この変更は結果的に大正解で、皆の疲れを最小限に抑えられたと思います。
参加者は26人(過去最低!?)…。当初は人手が少ないのでかなり時間がかかるかなあと思っていましたが、そんなことはなく、むしろ10分ほど早い1時間50分で終了することができました。配分は会館の裏側を男子10人、向かって右側のツツジを男子5人、左を女子7人、おにぎりを2人にやってもらい、終わったところから順次中庭に回ってもらうという段取りでした。予定はすべて順調に行き、皆テキパキと自分の仕事をやってくれて大助かりでした(特に良かったのはおにぎりチーム。2人だと厳しいかな…と思っていたのに、時間内にほとんど終わらせ、さらに作業している一人ひとりに水を配るという配慮も見せてくれました。ありがたし)。
さらに今回良かった点は、手持ち無沙汰にしている人がほとんどいなかったというところ。在寮生は積極的に仕事をしてくれて、新入寮生も指示を出すとまじめに取り組んでくれました。
作業がすべて終了し、皆がシャワーを浴びて、おにぎりの配布が始まったのが11時。前日のイベントで余ったお菓子やジュース、事務室から差し入れのアイスなどを頂いて、12時に解散しました。一仕事し、しっかり休憩してもまだ昼を越えてないのが地味に嬉しい…(今後は暑さに関係なく早めに始めるのもアリ!?)。
ちなみに生活委員長として大きな仕事はこれが初めてで、結構気合を入れて準備や指揮を務めました。あまり大きな失敗はなかったので良かったのですが、総合評価はもろもろ減点して70点ほどでしょうか?(笑)まあ、生活委員長はこれからもコンスタントに仕事があるので100点を目指して頑張りたいと思います。

交流の架け橋に

こんにちは。会長の坂根です。今年度の自己紹介ポスターが完成しました!こちらは寮生が自らの名前や出身大学、趣味、好きな有名人などを書いてもらったものをまとめたものです。これを見れば各々の寮生のざっくりとしたことはみんなに分かってもらえるのではないでしょうか。私自身、みんなのことをよく知っているわけではないので、ポスターを見て勉強させていただきます(笑)
 
 このポスターをきっかけに友達の輪が広げ、交流が深まるといいなと思っています!

初の大掃除

7月7日に大掃除を行いました。嬉しいことに今回は当日不参加の人が少なく、どの階も予定時刻より早く作業を終えてくれました。
ただ、個人的にひとつ、大いに反省するところがあります。「慣れ」だったのか、気持ちが緩んでいた点です。準備や作業の指示の段取りが、前回の除草作業の場合とまったく違うのにも係らず、「大丈夫だろう」と安易に考え、十分な準備を怠ってしまいました。そのせいで、当日洗剤の買い忘れや材料の不足が発生するなど、ミスや失敗をいくつか重ねてしまったのです…。他の人の手助けもあり、何とかカヴァーはできましたが、小さなミスは大きな失敗に繋がり得ます。今回の件は心に留めて、もう繰り返さないようにしよう、と決心しました。

第二回大掃除

 1215日、別日での実施が終わり、これでようやく長い大掃除が終了しました。当日が1130日、その準備を始めたのが1124日なので一ヶ月弱続いたことになります。この長い期間、僕は数々の問題行動に直面しました。参加すると言っておきながら当日すっぽかす人、連絡が滞り中々予定を決めさせない人、要望に沿って別日を設定したのに逃亡し、やらずに済まそうとする人…。業を煮やしながらもその都度対処しましたが、おかげで人は上からどう評価されているかをよく知ることができました。他に言いたいことはたくさんありますが、愚痴はこのくらいにしておきます。

 さて、今回僕はかなり入念に準備したつもりでした。まず、(奥さんや生活委員にも手伝ってもらいながらですが)寮にあるすべての洗剤を種類と用途ごとに細かく分別し、足りないものは買い出しに行き、分担表を一から作り直して既存のものでは不十分だった部分を多く補いました。前回が余りに準備不足だったのを反省して間違いが起こらないよう手配したつもりだったのですが、それでも当日になってひとつだけ不備が判明しました。換気扇にかけるカヴァーが、僕が換気扇の数を誤認していたために足りなくなってしまったのです。急いでコーナンまで買い出しに行き手に入れてきたことで事なきを得ましたが、これも前回がちゃんとした経験になっていなかったから起きたことです。いわゆる“PDCA(Plan「計画」―Do「実行」―Check「評価」―Action「改善」)”のサイクルとか言うやつでしょうか、このことを常に意識しないと仕事は改善しませんね。そうしないと“PDCA(Panic「混乱」―Doom「破滅」―Chaos「混沌」―Apocalypse「世紀末」)”(=前回の僕の状態)になってしまいます。冗談はさておき、来年もう一回だけ大掃除があるので、今回までの失敗を活かして完璧な仕事を目指したいと思います。

行ってきまーす!!

こんにちは!2回生、大谷です!

クリスマスまで、あと、2日!梅田、大阪城、天王寺、ユニバ、大阪では至るところで美しいイルミネーションが見れます! 日本中がクリスマスシーズンの中、寮では、早くも正月の話題でしばしば盛り上がりおります!「実家でこたつでダラダラしたい」や、寝正月宣言をしてる寮生もちらほら…私も毎年、正月は実家に帰ってこたつから一歩も出ない生活を送っておりますが、今年の冬は………なんと……スリランカで年越しします!!(かわいい)娘の帰省を楽しみにしてる両親には申し訳ない気持ちでいっぱいですが、今年の冬はスリランカで過ごします!

今回は1人旅なので、ほぼノープランで、コロンボ、エッラ、キャンディ、ダンブッラ、ゴール地区をゆるゆると回るつもりです!
スリランカといえば、紅茶ですよね!現地には沢山の紅茶の種類あり、地域によっても味が違うみたいなのでとても楽しみです!

 そして、今回、初の試み、無料で現地人の家に泊めてもらえるcouchsurfinというアプリ使って、現地人の方のお家にお邪魔します!スリランカの人たちと一緒に過ごし、彼らの文化や生活をリアルに経験したいと思います!

では、皆さん、メリークリスマス
そして、ハッピーニューイヤー!良いお年を!

大谷

スピーチコンテスト

堀江侑南です。本日12月6日スピーチコンテストがありました。様々な学科の方たちとの交流する機会にもなりました。また、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、などなどたくさんの言語でのスピーチを聞くことができました。私は、英語、中国語を基本に学んでいるので、スピーチを聞いていてとても楽しかったです。他の言語は全くと言っていいほどわからなかったのですが、聞いていてとても楽しかったです。私も、もっとたくさんの言語に触れていきたいと感じました。三月からフィリピンとアメリカにいってきます。様々な国籍の方たちとふれあい学んでいきたいです。

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)part2

第二回恋に落ちるとはいかなる経験か
                                   賀戸佑丞

  本章では恋に落ちるという経験はどのような特徴をもっているかを詳述していく。読者の中には恋人のいたことのない筆者にそんなことができるのか、野暮なことはするなと思う人もいるだろう。だが安心していただきたい。本章の記述はジジェクの著作中の断片をまとめ、多少私の想像を補うことで成立している。個人的には抽象的であるが、恋に落ちるという現象の本質を捉えたものになっているのではないかと思う。では早速本題に入ってみよう。

 

○「恋に落ちる」ことの特徴

 恋に落ちるとはいかなる経験なのか。それは上述の二つの恋愛とは異なったものである。その特徴は特に市場化した恋愛の特徴をきれいに反転させたものだと考えている。一つずつ確認していこう。

 まず一つ目が恋に落ちる者に選択の余地はないという点である。いや厳密にいえば誰に恋するかという選択はなされている。しかしその選択は「絶対に現在に訪れず、つねに/すでになされてしまっている」ものである。つまり恋に落ちる相手は自由選択で選ばれているが本人の意識の流れのなかでは自覚的に選択するような機会はないのである。恋に落ちた者にとっては自らの幻想空間の中の「理想の恋人」の椅子に勝手に座られるようなものである。彼/彼女は最初この事態をうまく呑み込めないが、少し時間がたてばとんでもないことが起こっていることに気付く。このような相手は人生で一度きりしか巡り合えないのではないかと感じる。

 ふたつ目は恋に落ちる時に、相手のポジティブな特性の積み上げの結果として相手を好きになるわけではないという点である。恋に落ちるとは自分と異性との理想的な関係という幻想を現実化するうえでぴったりの「役者」を発見するようなものである。この役者の条件は一般に「恋人に求めるもの」という形で語られるようなはっきりとしたものではなく、きわめてあいまいで言語化困難である。それでもひとつ言えそうなことは、それが恋に落ちる者の過去の経験に関係しているということである。すなわちその役者は過去の人間関係(例えば異性の親など)や自分が失ってしまったもの、手に入らなかったものを連想させるのであることが多い。この意味において恋に落ちるとは反復なのだ。恋に落ちる時この条件に無自覚である場合が多いため自分が恋に落ちた時に初めて自分が本当に恋人の条件として求めているものが何なのかを知ったりする。

 役者の条件と直接関係ないような特性についてはポジティブなものであれネガティブなものであれ相対的にその重要度は低くなる。しかし役者の条件に関わってくるような特性については過剰に反応する。条件に適合している特性については過大評価しがちである。また条件から逸脱するような特性については、一般にポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと不愉快な感情を掻き立てられる。一度自分が理想の恋人という役を与えた相手がこのような特性をもっていたら、最初はそれを見て見ぬふりをしようとする。しかし遅かれ早かれ自分が今まで相手に対して自分の幻想を投影していたこと、そして相手は自分が思っていたような役者などでなく固有の人格をもった存在であるという事実に直面する。ここにおいて恋に落ちたものの取りうる手段は①幻想のシナリオを逸脱しつつある劇を放棄する。②終わりのシナリオを付け加えて劇をきれいに終わらす。③幻想のシナリオ自体を修正する、である。これらは現実にはどれか一つが選択されるというより自分の幻想と実際の相手とのギャップの程度によって使い分けられるだろう。これらの手段についてはのちに再び触れる。

 みっつ目は恋に落ちた時点では等価交換は成り立たないという点である。これはもちろん経験的に好きになった相手が自分にとって不相応なほど魅力的であることが多いということでもある。しかしここで言いたいのはこの現象が構造的に発生するということである。恋に落ちた者は自分の幻想の中の理想の恋人の条件を満たした人物を見つければ何とかして相手をその恋人の位置に引き込もうとする。そのときに恋に落ちた側はいちいち等価交換が成り立っているのかどうかなどと考えない。相手に替えは利かず、この人でなければ意味がないとしか思えないからだ。事態は切迫し、場合によっては自分が是が非でも変わらなければならないことを自覚する。かつてなんとなく恋人が欲しいとか異性からの承認が欲しいと考えていたことが間抜けだったと思えてくる。相手の一挙手一投足に対し一喜一憂しナイーブになる。恋する者はこの試練をくぐり抜けなければならないのである。

 

○恋に落ちることの負の側面

 ここまで恋に落ちることをどちらかと言えばロマンチックなものとして、好意的な記述してきたが当然負の側面も併せもっている。しかしこの側面を避けようとすれば恋に落ちることの実質的な部分は失われてしまう。いいとこ取りはできないのである。では負の側面と考えられる特徴を挙げていこうと思う。

 まず恋に落ちるという経験は恋に落ちた側にとっても相手にとっても暴力的だということである。ジジェクの言葉を借りれば、主体にとって恋に落ちることとは「とんでもない不運」であり、「恐るべき寄生体」に取り憑かれることであり、「全てのささやかな楽しみを台無しにする永続化された緊急事態」である。また相手にとっても恋されるという経験とは熱烈な好意を向けられる立場に立たされることであり、それ自体が外傷的である。仮に最終的にそのことを好意的に思うとしても最初は「何か猥褻で闖入的なものが押し付けられた」と感じ困惑する(注1)。つまり程度の差こそあれ、相手に好意を告げるという行為自体がハラスメント的なのである。

 次に挙げたい負の側面は、恋に落ちてもその後の関係はうまくいかない事が多いという点である。これの意味するところの一つは、こちらが好意をもっていても相手が好意を持っている、あるいはこれからもつ可能性は低いということである(注2)。二つ目の意味は相手が自分の想像と違っていた、思い違いだったということが多いということである。上述の通り恋に落ちるという経験は自らのもつ幻想の中に相手を理想の異性という役で組み込むことである。よって相手を理想の異性たらしめていた諸条件が失われたりして、もはや理想の異性の役を割り当てられなくなってしまうと急速に熱は冷めていくことになる。

 (注1)また好意を向けられることに伴う困惑は、自分の理解するところの私と相手に熱烈な好意を起こさせる私の間のギャップに対する困惑でもある。

 (注2)私は少なくない数のカップルが日常生活の中で自然にお互いに好意が湧き、ある程度相手が自分に好意を持っていることが確信できる段階で正式に付き合い始めるという手順を踏んでいるという事実に驚かずにいられない。実際にそのようなプロセスがあることは想像できるが具体的にどうしたらそんなことが起こるのか見当がつかないのである。

 

○負の側面の克服

 以上の負の側面は克服できるものだろうか。私は恋愛からその暴力性を完全に取り除くことは不可能であると考えている。もちろん相手に対する事前に予測できる暴力性については最大限の配慮がなされるべきである。しかし潜在的なものも含めてあらゆる暴力性を排除することは不可能であるし、それをしようとすれば恋愛はしないほうがいいということになる。よって負の側面の克服は無理である。

 一方で私は恋に落ちたその後に伴う難しさについては克服可能であると考えている。ではどのような方法があるか説明していこう。まず相手が自分にとくに好意をもっていないという状況であるが、これは各自で頑張るしかない。探せばいくらでもマニュアルみたいなものが見つかるだろうが、正解はない。個人的には相手のことをよく観察することが大事であることは間違いなく言えるだろうと思う。(注1)

 次に相手が自分の思うような人物でなくて情熱が覚めてしまうという場面に対する対処法を述べたいと思うこれには二つの方法を考えた。

 一つ目はドラマや映画でよく使われる恋愛や愛の美しさを永遠にするための手法である。つまり相手への情熱が最も盛り上がった瞬間や二人の心が通じあったように見えた瞬間に、どちらかが物語から退場するという手法である。これによって相手への思いや恋はその美しさのまま記憶に残すことができる。もし相手への熱が冷めたり、失望したりすれば恋そのものが消滅してしまう。それよりは恋の相手自体を失ってしまうほうがましなのである(注2)。この方法は自分で意図的に行えば意味がなく非現実的なものである(注3)。

 次にもう一つの方法というより相手への失望という事態をうまく乗り切るための心構えのようなものを述べたいと思う。その心構えとは「我々は真実を直接知ることはできず、真実に到達するためには誤認が必要である」ということである。恋に落ちた者は遅かれ早かれ、相手が自分の考えていたような理想の異性でないことに気付くことになる。この時に多少なりとも相手への情熱は冷めてしまうわけだが、しかしこの誤認は相手の特性をよく知るうえで必要な誤認なのである。なぜ誤認抜きで直接真の特性を知ることができないのかをあえて観光を例に説明してみよう。我々はどこかに観光する際にその土地に対し事前に何らかのイメージを持っている。そして実際に観光してみた時にその観光地の実情は事前のイメージとは異なることに気付く。重要なのはこのプロセスにおいて事前のイメージ抜きに直接実情を知るということは実際には起こりえないということである。事前にイメージをもつこと、あるいは強い興味をもつことがなければ、真実を知るところまでたどりつけないのである。だから単に失望してしまうのではなく相手の真の特性を知る機会を得たのだとポジティブに捉え、相手の簡単に表面に出てこないような素晴らしい特質を発見できるように粘り強くアプローチすべきである。(もちろん結果論として早く諦めるべきだったという場合はあると思うが。)

 そしてもう一つ心に留めておきたいのは「他者の中に見つけた欠点の中に我々はそれとは知らずに、自分自身の主観的立場の虚偽性を見出す」ということである。本章の流れで言えば、相手の中の特性を受け入れがたいと感じるのは、相手を自分の幻想を通して見ているがためである。このような場面は自身の主観性、自分が相手に投影している幻想を反省的にとらえるチャンスである。これによって自らの幻想を組み替えることが可能になり、結果として当初許容することが難しかった相手の特質を受け入れることができるようになるかもしれない。

 (注1)私が勝手に要約したジジェクによるアドバイスは「お互いに見つめ合っていても好意は生まれない。好意とは本質的に副産物であり、それ自体を目的にすることはできない。幸せな恋愛関係を手にするためには第3の共通する原因をもつ必要がある。」

 (注2)ジジェク曰く、憂鬱であるとは欲望の対象はあるけれど欲望そのものを失ってしまうことである。つまり欲望された対象を欲望させる何かを失うということである。

 (注3)しかしこの方法が現実には全くとられていないというわけではない。いわば無意識的にこのような方法がとられることがある。例えば本人にそのつもりがなくても相手への失望を予期したり、相手は特に自分に関心がないという事実に直面するのを回避するために疎遠になるような行動(あるいは非行動)をとるような場面が考えられる。

 
○別の仕方で考える

 本稿の目的は「恋に落ちる」という経験を肯定することである。今回の記事は「恋に落ちる」とはどのような特徴をもった経験なのかを記述してきたが、どうも肯定できるところまではいってないように思う。なので「恋に落ちる」という経験を別の切り口で語りたいと思う。

 そもそも私が「恋に落ちる」という言葉で想定している事態は具体的には意図しない形で自分の見える世界が変わってしまうような、そして関係性の中にどうしようもなく巻き込まれてしまうような経験である。すなわち能動と受動の境界をはっきり引くことができないような経験である。一般に流通している言葉で言えば「恋は盲目」が一番しっくりくる。

 私は「恋に落ちて」見える世界が変わるとはその人の固有の意味世界が一変することだと考えている。では意味世界が一変するとはどのようなものなのか。これを説明するためにジジェクのイデオロギー闘争の説明を参照したい。ジジェクによるとイデオロギー闘争とは言葉の意味を確定させる特権的な地位をどのイデオロギーが占めるのかという闘争である。具体例を示そう。「自由」が意味することは保守側から見るかリベラル側から見るかで変わる。すなわち保守側から見れば「自由」とは国家が介入しないことであり、リベラル側からみれば国家が積極的に再分配を行うことで達成されるものである。ここで我々にとって大事なのは特権的な地位を占めるものが変われば意味世界が一変してしまうということである。

 まさに「恋に落ちる」ということはこの特権的な地位を恋愛が占めるということではないだろうか。日々の行動の意味が変わってしまう。それまで無頓着だった服装に気を配る。あの子との会話での話のネタを拾うことを意識して生活する。あの子からみて好ましい人間になれるように努力するetc...。恋に落ちた者が活動的になるのは新たな意味世界を手に入れたからである。

 もし恋愛が終わってしまえば意味世界は再びもとに戻る。しかし人にとって一度与えられた、見出された意味を失ってしまうことは耐え難い苦痛である。あらゆる意味が失われてしまったように見え、後に残るのは抜け殻の世界である(注1)。恋に落ちている者はそのことを予感しているため難しい状況でもその恋を自分から手放すことができない。

 (注1)最初から何もない場所には何もない。一度でも何かが存在し、そして失われたならばそこに残るのは欠落である。

  次に関係性に巻き込まれるとはどのような状態かを詳しく説明していきたい。ここでは題材として映画『レオン』(1994)を取り上げる。この映画は一般的に評価が高く、個人的にも好きな映画なのでぜひ視聴をおすすめしたい作品である。この作品の内容を一言でいうと、これまで根無し草のように生きてきた殺し屋が少女との交流の中で生きる望みを見出す話である。(殺し屋と少女の関係は恋愛ではないが、殺し屋の側に意味世界の変容と関係への巻き込まれが起こっているためここで扱うのは適切であると考える)。しかしこの映画を別の見方をすると、魔性の女に人生を狂わされた男の話ということもできる。殺し屋は少女のためにやった勇み足が原因で最後には死に、もし少女と出会わなければ淡々と殺し屋稼業を続けていたであろうからである。我々はこの映画で描かれている“美しい愛”に素直に感動するだけでなく、関係性に巻き込まれるということの両義性を考えねばならない。

 もちろん現実世界でこのような状況はそうそうないだろう。関係に巻き込まれ自らの命を危険にさらしてでも生きる望みをとるか、それとも生きる望みが手に入らなくても関係に巻き込まれない安全な生活をとるかという選択はあまりに極端な考え方である。しかし最初から安全な道を優先し関係性に巻き込まれることを避けようという態度でいれば生きる望みと言えるような強い欲望をもてるようなことはないのではないだろうか。死ぬとまではいかなくても予測不可能なリスクを引き受け関係性の中に身を投じなければ生きる望み、生きているという感覚は得られないのではないだろうか。

 人が恋に落ちれば固有の意味世界が一変する。さらに関係が深まれば自分の欲望と相手の欲望の区別はあいまいになる。だから人は恋に落ちれば日々の生活が生き生きと感じられ活動的になるのだが、その反面常識的に考えれば不可解な行動をとる可能性が高まる。もちろんどのような選択をするかは個人の考え方の問題であろう。しかし私は、生きる望みが欲しいのならば、生きている実感が欲しいのならば深い関係の中に身を投じるしかないと考えている。これは必ずしも恋に落ちることが前提の話ではない。これはより広く愛の領域の問題である。次回は愛の分析に進もうと考えている。

 

次回につづく…

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)part1

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)

賀戸佑丞

 本記事は当初全文を一度に投稿する予定であったが、予想を超えてあまりに長くそしていつまでも書き終えることができないので複数回に分けて投稿することにした。予定では全4回くらいを考えているがどうなるかまだわからない。なるべく週一のペースで投稿できるよう努力したいと思う。

 

第1回 恋に落ちなくなった日本人

 

はじめに

 本稿のテーマは恋愛である。ひいては愛するということである。読者の中にはそのようなテーマを論じるのに筆者は不適格であると感じる方もいるであろう。自分でもそう思う。私には恋人がいたことがない。このテーマの文章を書くことを私は何度も逡巡したが、結局今一番文章として書きだして体系的に自分の考えを整理したいと思うテーマはこれだった。自分の関心のないテーマについては自分にとって面白いと思えるようなものは書けないので仕方ない。本稿は理論と概念と想像によって記述されていることをはじめに断っておく。
 この文章は個人的な趣味で書いているが一応建前として本稿の意義を説明しておこう。フロム曰く、人間にとって愛するという行為は先天的に身についている能力ではなく、後天的に学習していくものである。つまり人は各々の生活の中での活動やフィクションから愛するとはどういうことなのか、自分ならどうするかということを学んでいくことになる。しかし学習とはこのような具体的、経験的なものからのみ行われればいいのだろうか。時には立ち止まって抽象的にじっくり考えてみることも必要なんじゃないか。そしてそれが恋愛や愛についての本質的な理解、ひいてはよく生きることにつながるのではないか。本稿はこのような問題について読者が考えるきっかけになればと思っている。
 本稿のねらいと内容を簡単に説明しておく。本稿の一番のねらいは「現代の日本人は(日常生活の中で)恋に落ちることを避けるようになったが、しかし恋に落ちることは素晴らしい経験なのだ。」ということを主張することにある。内容については、まず現在日本社会に広がりつつある2つのタイプの恋愛、すなわちキャラやアイドルに恋するオタク的恋愛と、婚活など(注1)においてその論理が剥き出しになる市場化した恋愛についてその社会的背景も含めて論じる。次にこの2つの恋愛とは異なる「恋に落ちる」という現象について論じ、その意義を強調する。そして「恋に落ちる」ことのネガティブな側面とその克服について論じる。最後に愛とそれのもつ両義性について論じ、そして全体のまとめに入りたいと考えている。なお本稿ではその発想源の多くをフランスの精神分析家J.ラカン(1901~81)とスロヴェニアの哲学者S.ジジェク(1949~)に拠っていることをあらかじめ断っておく。

 

(注1)現在の日本における結婚は9割が恋愛結婚であり、見合い結婚は約5%である。つまり結婚の前提として恋愛することが必要になっている。これはなぜなのだろうか。ラカンのテーゼに「性的関係は存在しない」というものがある。これは男女の互いの持つ幻想は常に食い違うことを意味する。この食い違いを克服するためには両者のもつ幻想を包括する物語が必要になってくる。そこで登場してくるのは恋愛と愛の物語であると考えられる。婚活は市場が提供する見合いの場と言えると思うのだが、そこで重要なのは自由恋愛という見せかけが維持されることなのである。ちなみに見合い結婚とはイエの再生産の物語である。

 

第一章 オタク的恋愛と市場化した恋愛

 本章では日本で存在感を増してきている2つの恋愛、すなわちオタク的恋愛と市場化した恋愛について説明していくが、その前に統計データ(平成25年度版厚生労働白書)を基に日本人の恋愛事情を簡単に確認しておく。「現在婚約者または恋人がいる」人の割合は2005年で32.1%、2010年で24.6%であり、恋人のいる人が3人に1人から4人に1人に減少している。交際している人がいない人の中で交際を望む人と望まない人の割合は男女とも約半々である。交際を望まない人の理由としては男女ともに「自分の趣味に力を入れたい」「恋愛が面倒」と答える人の割合が高くなっている。交際相手を持たない人の交際上での不安としては、「異性に対して魅力がないのではないか」が男女ともトップであり、以下ではどのように恋愛が始まり、進んでいくのかがわからないという主旨の項目が並んでいる。以上を乱暴に要約すると、「現在恋人のいる人は減ってきている。そして恋人のいない人たちは、恋人は欲しいけど自分に自信ないし、そもそも恋愛の仕方がわからない派と恋愛は面倒、時間の無駄派に分かれている。」ということになる。


〇オタク的恋愛
 こういった認識を踏まえたうえで本題に入っていきたい。まずオタク的恋愛について説明していく。これはオタクたちが二次元キャラクターやアイドルへ一方的に恋愛感情をもつことである(彼らの言葉で言えば「萌え」や「推し」)。この恋愛の特徴はオタクたちには万能感と不能感が混在していることである。彼らは一方的に対象をまなざし、自分の好みのキャラやアイドルを品定めし、恋愛を始める。そこでの恋愛は現実の恋愛では発生するであろう様々な責任やリスクを引き受ける可能性が最初から排除されている。彼らは同時に複数のキャラやアイドルと恋愛できるし、飽きてくればいつでも降りることができる。
 しかしこのような万能感の裏返しとして彼らは圧倒的に不能でもある。彼らはキャラやアイドルから「彼ら自身」として見つめ返されることはない。どんな影響も与えることができない(仮にできたように見えても相手から見れば誰でもよかった/できたことである)。当たり前のことだがオタクたちのとキャラやアイドルの関係は一方通行であり、人格同士の関係ではない。(注1)
 ここで注意しておきたいのは、この不能感がオタクたちの主観においてどのように機能しているかという点である。実は彼らは不能であるがゆえに”真摯“に恋愛することができるのである。どういうことかというと無力で責任がないためにキレイゴトが言えるということである。オタクたちは決して手の届かないキャラやアイドルを素直に褒めたたえ、そして愛を語る。そうすることで対象は崇高な存在へと高められ、恋愛は精神性の高い美しいものとなる。

 このように恋愛の主体としてのオタクは万能感と不能感の分裂を抱えており、その主体性は貧しいものである(注2)。彼らの語る愛は時に美しいが(そして個人的にはそこまで熱中できるものがあることを羨ましく思うときもあるのだが)、それは自らの不能性の上に成立している。彼らは現実から遊離した過剰なロマン主義者といえるだろう。

 (注1)オタクたちに対し彼らの信奉するものが虚構であることをいくら指摘しても彼らは自らの考えを改めることはなく、それどころか彼らの信奉は無傷である。なぜならオタクとはイデオロギーだからである。ジジェクによるとイデオロギーにおいて重要なのはその中身、教義ではなく「人を一定方向に歩き続けさせ、心がそうと決めたらどんな疑わしい意見にも従う」という形式のほうである。その形式に自らを従わせること自体が主体に享楽をもたらすのである。つまり話を戻すと、自分はオタクであるという認識は一つのイデオロギーへの信奉であり、オタクたちは個々のコンテンツからというより、自らの行動が一連のオタク的身振りに方向づけられることから享楽を得ているのである。(とはいえやはりコンテンツから得られるフェティッシュな快楽も無視できない)
 そしてイデオロギーにとってもう一つ重要な点はイデオロギーの本来の目的(形式への服従)は主体からは隠ぺいされていなければならず、もし主体がこの目的に気づいてしまえば、享楽は得られなくなってしまうという点である。よってイデオロギー批判の最良の方法は、イデオロギーの内容は偶然的に選ばれたものであり、彼らにとって重要なのはそのイデオロギー的形式なのだという事実を暴露してしまうことである。(以上のことを踏まえれば我々の世界はイデオロギーにあふれていることに気づく。あくまでオタクとは若者を中心に大きな求心力のあるイデオロギーのひとつと認識すべきだろう。)

 (注2)注意しておきたいのは、これはオタクたちが現実の恋愛でもこのような分裂を抱えていることを意味しないということである。東浩紀氏によると「オタクたちの愛するコンテンツは現実にはなにも指示しないし、彼らの現実の生活となにも関係しない。」(「テーマパーク化する地球」『テーマパーク化する地球』2019)。オタクたちが虚構に対しどれだけ倒錯的な愛を向けているように見えても、現実では「正常な」性規範を備えている場合がほとんどである。

 

〇市場化した恋愛
 次に現代の過剰に現実的な恋愛、市場化した恋愛について説明していく。ここでの市場化とは、ネット上であれ、現実世界であれ日常生活の中では出会うことが不可能なほどの数の候補者の中から自らの恋人を選ぶ/選ばれることを可能にするアーキテクチャが整備されたことと、そのことによる意識の変化、すなわち自らを恋愛市場を流通する商品とみなすようになることを指す。では市場化した恋愛がどのような特徴をもつのかを説明したいと思う。
 ひとつ目は主体の選択の余地が大きいことである。例えば市場への入退場は個人の自由である。また膨大な候補者の中から自分の重視する特性を持つ相手を絞り込んで恋人を選ぶことができる。
 ふたつ目は相手の評価がポジティブな特性の列挙による加算方式によってなされるということである。相手のことを知るとは相手が列挙する特性を知るということである。すべての言動が評価の視線に晒されている。他者からみて好ましいと思える特性をひとつでも多く身につけるよう動機づけられる。
 みっつ目は恋人を選ぶ/選ばれる際に等価交換が成り立つかどうかが重視されるということである。自らの市場的価値を冷静に見極め、なるべく等価交換が成り立つ(またあわよくば自らが剰余価値を獲得できるように)相手を探さなければならない。(注1)

  (注1)ここまで特徴を並べてみて、これらの特徴は市場化した恋愛に固有のものではなく、昔から恋愛にはこのような側面が存在していたのではと考えるようになった。しかしそれでもこのような側面が誰の目にも明らかになってしまっていることが市場化した恋愛の特異性であるといえるだろう。

 〇2つの恋愛の社会的背景
 これで一応2つの説明が終わったことになる。次にこの二つの恋愛が現在の日本社会で存在感を増している背景について述べたいと思う。この2つに共通の背景などあるのだろうか。片や現実離れした過剰にロマン主義的な恋愛であり、片や過剰に現実的なリアリズム的恋愛である。一見互いに逆方向のベクトルを向いているように見えるが、実はある共通の特徴を有しているのである。それは自分にとって予想外な波風が立つことを恐れること、そして傷つくことを回避しようとすることである(注1)
 詳しく説明していこう。まず現代の「合理的な」人々の一部は「人生の最適化」願望を抱いているという点を挙げたい。どうすれば効率的に日常生活をひいては人生を送ることができるかが中心的関心となっている(注2)。よって非効率的なものは生活からどんどん排除されていくことになるのだが、彼らにとって現実の恋愛も非効率的なものである。彼らはまったく恋愛を望んでいないわけではないが、その金銭的、時間的、精神的コストを考えると割に合わないものであり、その分趣味、学業、仕事に注力したほうがましだと考えている(注3)。
 次に挙げたいのが現代人は他者との距離感に対して非常に敏感になっているという点である。タバコの受動喫煙やハラスメントは言わずもがなだが、善意によるものであっても単純に他者の接近は抵抗感や不快感を生じさせる危険性があるのである。よって他者からはなるべく一定の距離をとろうとするし、自分が行動する場面においても相手がどう感じるかについて敏感にならざるを得ない。

 以上のことを踏まえると現在の日本で(恋に落ちて)恋愛することが難しくなっていることが理解できる。「合理的に」考えれば恋愛はコスパが悪い。もし結婚相手が欲しければ婚活で直接結婚相手を選んだほうがコスパはいい。さらに人々は他者から傷つけられることに敏感になっている。人に熱烈な好意を向けることは相手を困惑させずにはいられないし、時に暴力的ですらある。断られればもちろん大きく落胆することになる。本気で恋愛すれば双方無傷ではいられない。
 しかしである。では我々はなるべく予想外な波風の少ない、傷つく可能性の少ない上述した2つの恋愛で満足すべきなのだろうか。果たしてそのようなリスクの排除された恋愛は恋愛と呼べるのだろうか。それはまるでアルコール抜きのビールなのではないだろうか。まさに危険であるが本質的である要素が除かれたものなのではないか。私はあくまでも恋に落ちることで始まる恋愛を志向したい。私は恋愛によって酔うことを求めるのである。

 次回につづく…

 

(注1)ラカンによると父権的権威主義が衰退し資本の論理が支配する現代では「去勢」が排除されている。「去勢」とはここでは自らのナルシシズム的万能感の喪失、あるいはナルシシズム的快楽の追求の制限を意味する。「去勢」は自分で意図的に行うことはできず、社会の側から強制されることで達成される。しかし現代ではもはや社会は個人に「去勢」を強制しない。資本主義的市場は人々を理想的な自分を目指すようにせき立てる。「あなたが望みさえすれば理想的なあなたになることができますよ、いくらでも楽しむことができますよ。」というわけである。さらにネット・SNSがこの傾向に拍車を掛けている。現代はいつまでもナルシシズム的快楽を追求することが可能な、むしろ推奨されている時代なのだ。
 しかし我々にとって重要なことは人を愛するためには自らが「去勢」されていなければならないということである。自らの「欠如」を認め自分には他者が必要であることを知らなければならないのである。本章で述べた2つの恋愛はともに自らのナルシシズムの傷つきを回避し、ナルシシズム的快楽の追求を妨げない、あるいは助長するものではないだろうか。

 (注2)別の言い方をすれば「快と不快のバランスシートの快のプラスをどれだけ増やせるかに中心的関心がある」である。

 (注3)そんな彼らの中でも将来的に結婚したいと考えている人は多い。しかし「はじめに」で述べたように、恋愛する能力・愛する能力は学習によって身につけるものである。結婚相手をいきなり探そうとしたり、異性と持続的な関係を築こうとしても苦労することは目に見えており、結果として大きな回り道をすることになるかもしれない。そのようなリスクについても考えておくべきであろう。

10月26日 小川ひとみさんと宮崎貴史さんのおはなしをきいて

こんにちは。3年生の寺井です。10月26日にガーナで青年海外協力隊の活動をしていた小川ひとみさんとIT関連の仕事をなさっている宮崎貴史さんのお話を聞きました。最初の1時間でガーナという国について、残りの1時間でガーナで小川さんが実際にした活動についてのお話を聞きました。私はガーナという国について地理的な事しか知らず、ガーナの衣食住やガーナ特有の文化についてクイズを交えながら楽しく学ぶことができました。また、JICAの活動として学校でICTの教鞭をとっていた小川さん。パソコンに必要な電気もなければ、パソコンもほとんどない中で日本と同じようにパソコンの授業ができるはずもありません。そんな中、小川さんは様々な工夫を施し、授業をなさっていたそうです。正直私は今までJICAの活動について詳しくは知らず、発展途上国に行って生活のお手伝いをするという抽象的なイメージしか持っていませんでした。小川さんのように教育もしていると知り、驚きました。私が一番感心したのは、小川さんの授業づくりです。ガーナの人々をやる気にさせるような教材作り。人々を動かす、やる気にさせるのはとても大変です。私も、学生会館の自治会や、サークルの執行部をやっている若しくはやっていたので、その大変さはよく知っています。どうやったらみんなが動いてくれるのか毎日のように考えていました。いまだにその答えは分かりません。小川さんは同じ困難を、ガーナという異国の地で乗り越えたのですから、とてもすごいと思いました。
この講演会のお話を頂いたとき、正直法律を学んでいる私にJICAの活動はあまり関係がないだろうなとおもっていました。しかしいざ参加してみると、小川さんの明るい人柄や講演に魅かれ、楽しんでいる自分がいました。私だけでなく、参加者全員が楽しめたと思います。その証拠に、最後の質問コーナーではたくさんの質問が飛び交いました。ITに興味のある学生や、海外に興味のある学生が多いこの寮。参加者にもそのような子がたくさんいました。その子たちからの様々な質問に小川さんも宮崎さんも丁寧に答えてくださいました。最初は関係ないだろうと思っていた私も、自分の中で法律と絡めて講演会を聞き、質問させて頂きました。自分が予想していた以上に自分にとって有意義な講演会になりました。
最後に私たちのためにわざわざ東京からお越しいただいた小川さん、宮崎さんに感謝したいと思います。楽しい講演会をありがとうございました。

講演会の様子

講演会終了後、個別に質問に行く学生

初海外!ウィーンで芸術文化研修~その1~

こんにちは!寮生の下舞です。
9月の中頃に、12日間海外研修にいってきました。その場所はというと…
芸術の都、オーストリアのウィーンです!!
初めての海外で、ウィーンだなんて、と行く前からとても興奮してしまいました(笑)
この海外研修は、大学の今年初めてのプログラムで、現地で文化政策・芸術文化教育・アートマネジメントなどに関する取り組みを行っている文化機関の方と連携して、大学教授の話や他の文化機関の方々の話を聞いたり、美術館・博物館・コンサートホール・アトリエ…などに行って運営側の話を聞いたり、実際にアートの現場に行ってみたり…と芸術文化に関する内容がてんこ盛りのスタディツアーでした。
そんなプログラムの目玉は、ズバリ芸術の都を肌で感じる体験です!
つまり…オペラ座でのバレエ鑑賞に始まり、ガイド付き(もちろん英語)の美術館鑑賞、オペラ鑑賞、オペラのリハに楽友協会でのコンサート、そしてコンチェルトハウスでのウィーンフィルコンサートなどなどです!
それだけでなく、普通のツアーでは行けないところ(ウィーンの端にある、共産主義時代の集合住宅地区や移民が多く暮らしている地区、また王宮の地下など)もいろいろ巡りました。
これらを実質10日間ですべてこなしたので、まるで1か月ウィーンにいたような気分でした!
この研修を通して、感じたこと・考えたことは山ほどありますが、その中からいくつか書こうと思います。
まず、ウィーン(オーストリア)の人々は一人ひとりが自分の文化は素晴らしい、と強く思っているということです。ウィーンは日本に比べて芸術文化に関係する機関がずっとたくさんあり、そこで働く人々はどうやったらより多くの人に(特に若者に)芸術に触れてもらえるか、機会を提供するか常に真剣に考えていました。また、オペラやコンサートを聴きに行ったときの聴衆の歓声には驚きました。全力で拍手する人々の姿やホールの熱気を感じて、芸術そのものだけでなく、そこに携わる人・演奏者・歌手などに対して尊敬の念を抱き、それを態度で表す(ドレスコードなども含め)のが当たり前になっているのだなと思いました。
一方日本(人)は、基本的に自国の文化に対する意識が低いと感じました。これは自分自身が痛感したことです。ウィーンに行って、街中の荘厳な建物や博物館の美術品を観ていると、「日本よりずっと優れている」と思うことが何度かありました。でも、よくよく考えてみると、西洋には西洋の良さが、日本には日本の良さがあり、根底にある考え方が違うため比較し優劣を付けることはできません。また日本にも素晴らしい文化がたくさんあります。しかし、その価値を正しく理解できていないがためにそのようなことを言ってしまいがちなのではないかと思いました。その価値を理解するにはその文化が生まれた背景(歴史)を知る必要があります。つまり、もっと日本のことを知ることが大事だと感じました。
まだまだ整理がついていませんが、この研修で学んだことをいつか活かしていけたらいいなと思っています。

石見神楽なにわ館

大阪日日新聞(8月27日)のぶんか「関西の音と人」に玉田千里さん(大阪大学文学部4年)の『石見神楽なにわ館』が載っていました。
以下原文のままです。

 祭りが佳境に差し掛かった夜中、皆でたき火を囲む。太鼓と笛の音色が静まり返った山々に響き渡り、鬼や神が身を翻すたび、衣装がキラキラと輝く。私にとっての石見神楽は、こんな原風景と共にある。皆が一緒にいる感覚、と言い換えてもよい。
 私は島根県西部の中山間地域、つまりディープな石見地域で育ち、石見神楽をずっと見て育ってきた。石見神楽はこの地方に伝わる神楽だ。神社で行われる神事のほかに地元の夏祭り、ショッピングセンターなど様々な場所で目にすることができ、地元の人々にとっては身近な娯楽として親しまれている。その石見神楽を観られる施設が、何と「大阪にできた」と聞き、私は『石見神楽なにわ館』(大阪メトロ・阪神桜川駅から徒歩5分)を訪れた。
 そこで観た物は、私が知っている石見神楽ではなかった。お囃子のちょっとした揺れ、手足の所作、面を外して舞う時の目付き、微妙な部分の違和感の重なりに混乱し、照明の華やかさ、ストーリーの分かりやすさを強調した演出にもショックを受けた。そこは私の原風景とは無縁だった。
 「ここで神楽を舞う人たちは、どのような思いを持っているのだろうか?」そんな疑問を抱き、私は再び同館を訪ね、一部の演者の方々にインタビューをした。彼らの経歴は、元会社員、小劇場の劇団員、大学生など様々だ。関西圏出身で「これまで石見神楽の存在を知らなかった」という人もいたが、祖父母が島根出身だったり、自分自身が石見地方の出だったりという人もいる。一人一人が様々な思いを抱えながら、神楽と向き合っていることを真剣に話してくれた。
 話を聞く中で浮かび上がって来たのは、土地を離れた芸能の危うさだ。神楽に限らずある土地で受け継がれてきた伝統は、その土地の人たちによって担われるのが普通で、それが生活の一部となっている。そこには「同じ共同体の中で生きている者」であるという共通の認識がある。一方でなにわ館では、この了解を持たない人々が石見神楽を通じてつながっている。自分がより大きなものの一部に属しているという感覚がなければ、神楽の説得力は失われる。大阪に生きる人の舞が醸し出す空気感が、石見の人のものと異なるのは当然だろう。
 印象的だったのは「大阪社中にしかできないものを作りたい」「このなにわ館が有名になったら、島根の人に見てもらいたい」という、演者の方々の言葉だ。「石見」という束縛を離れた石見神楽は、エンターテインメントという側面が強まり、より演劇的で自由な表現ができるようになる。石見にはほとんどいない、女性の舞い手がいるという点にも自由さが表れている。そして舞い手の方々の、石見神楽を石見の物として尊重しつつ「大阪にいる自分たちだけの表現を模索していきたい」という思いが伝わり、私は故郷を愛する人間としての嬉しさと、石見神楽の変化の可能性を感じた。
 大阪の地の「石見神楽」は、誰かの原風景となるのだろうか?変わっていく石見神楽の変わらないところは何だろうか?
 石見で生まれ育った大学生の疑問と想像はまだまだ尽きない。

サイクリング部(長野~富士山)

1回生の佐藤萌衣です。
8/18~26まで、サイクリング部の活動で長野県や富士山に行ってきました。長野県には23日までいて、国道最高地点や美ケ原高原、善光寺、SUWAガラス館などに行きました。国道最高地点や美ケ原高原は標高2000m超えの場所だし、天候が悪く雨が降ったり霧に覆われたりして、たどり着くまでかなりしんどかったですが、登りきった後の景色はとても綺麗でした。自分の足で雲の上まで行くというのはなかなか経験できることではないので、非常に良い経験だったなあと思います。善光寺には初めて行って、お戒壇巡りをしました。予想以上に暗い空間だったので怖かったです。SUWAガラス館ではとてもきれいなガラスの作品を見ることができ、キラキラしたガラスたちのおかげで疲れが軽減されました。ここではとんぼ玉を作ることができ、楽しかったです!また、美味しいものをたくさん食べました。長野県名産のももやリンゴジュース、そばなどはもちろん、班の皆さんと食べた、自分たちで作ったハヤシライスや麻婆豆腐、うどん、パスタもとても美味しかったです。

24、25日は、本来長野県から富士山まで電車で行くつもりだったのですが、2日間かけて自分で自転車で行こうと誘っていただき、長野から山梨を通って静岡県富士市まで自転車をこぎました。久しぶりに晴れて、景色も綺麗だったので、とても爽快でした!休憩をはさみ、おいしいとんかつやソフトクリーム、ぶどうをたべながらみんなと楽しく自転車をこぐことができたので、この自走に参加して本当に良かったなあと感じました。
26日は富士山に登りました。天候の関係で5合目まではバスで行き、そこから歩いて登りました。山に登ったことはほとんどなかったので、高山病を心配していましたが、それに関しては全然大丈夫でした。ただ、当たり前ですが傾斜が急で、しかもわたしはごく普通のスニーカーで登ってしまったので、登頂するころにはよろよろでした笑。頂上からの眺めは最高で、達成感が大きかったです。ここでかなり大変だったのは下山です。登るときはそこまで危なくなかったのですが、下るときは岩や石で滑りやすいので、集中力が欠かせませんでした。この日は富士山で落石での死亡事故もあったのですが、無事に下れて本当によかったです。
この9日間、ハードでしたがとても貴重で楽しく、成長できる経験をすることができました。これからも色んな場所へ行って、色んな経験をするのが楽しみです!

国道最高地点までの景色

美ケ原高原

SUWAガラス館

富士山登頂

大学選手権の読手を務めて・・・

こんにちは。3回生の寺井です。8月10日11日に競技かるたの大学選手権大会が行われました。10日に団体戦11日に個人戦が行われ、私は両日とも読手として参加しました。しかも、私は団体戦、個人戦両方の決勝戦の読手を務めました。決勝戦の会場は近江勧学館浦安の間です。お正月に競技かるた最高峰の戦い名人位・クイーン位決定戦が行われる部屋です。私も何度か浦安の間で読ませていただきましたが、いつもの浦安の間とは違っていました。団体戦の決勝は慶應義塾大学と法政大学、3位決定戦が九州大学と立命館大学の戦いでした。最後の試合ともなると緊張感が違いました。私の一声で選手が札を取る。そのたびに試合が動く。責任は重大です。高校の時に総文祭で読手を務めましたが、その時と同じくらい緊張しました。
3対3の団体戦で両チームとも1勝ずつ、あと1勝で優勝が決まるという場面。両方が残り1枚ずつになり、あと1枚で勝負が決まってしまいます。これを「運命戦」といいます。どちらが読まれるかわからない、読まれた札をどちらが取るがわからない。まさに「運命」です。その「運命」は読手である私にかかっている。あの場で一番緊張したのは私だったとも思います。たくさんの観客が客席で見守る中、私は最後の1首の上の句を読みました。決まり時まで読み終えた瞬間、会場中が歓喜とため息に包まれました。勝利した慶應の歓喜、負けてしまった法政のため息。読誦席にいた私はその両方が感じられ、まさに青春だと思いました。また、失敗してはいけないというプレッシャーから解放された安心感を得ました。さまざまな感情が入り混じる近江勧学館浦安の間で私は最後の下の句を読み終えました。私の任務が終了した瞬間でした。
大会運営においてどの役目も欠かすことができない大事なものです。しかし、かるたの大会で1番欠かすことのできないものそれが読手です。今回その重大な役目を終え、私はたくさんのものを得ました。読誦席でしか感じることのできない感情も湧き起ってきました。今年の大学選手権は終わってしまいましたが、また来年、再び読手としてこの大会に参加出来たらいいなと思いました。

海士町研修2

僕がこの研修で感じた事は、島のデメリットを、見方を変えて利用しようとする取り組みが行われているということです。島には人口減少、超少子高齢化、超財政難というデメリットがあり、島は社会の縮図です。しかしここで、島には日本をつくるヒントがあると考えるのが海士町です。島前教育魅力化プロジェクトにしても学校存続の危機を地方創生の好機と捉えていました。また、島には協働という意識が強く存在することを実感しました。例えば、島のお祭りや地区活動の草むしりでは、役場の人と地域の人が混じって行っておられました。本土ではあまり目にすることのない光景です。全員ではないと思いますが、Iターンとして入って来られた人も島の人と打ち解けられる環境があるのではないでしょうか。これは離島ならではの閉鎖的な環境による人間関係が要因であると思いますが、本気で何かをしようとする人には行政も地元の人も本気で応援してくれる環境がありました。
最後に
今回の研修で僕は多くの発見をしましたが、一方でそれぞれの体験が何のために意図されたものかというところにあまり意識が向かなかったので、もっと深い発見ができたのではないかと感じました。また、この研修で得たものを今後何に生かすのかはっきりしていなかったので、実りある研修にするためにも、そこはしっかり考えないといけないという課題も見えました。お世話になった方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。

海士町研修1

こんにちは。309号室の奥田です。僕は先日、5日間海士町を訪問させていただきました。僕が海士町を訪問した理由は”地方創生の成功例”などとよく目にする海士町に興味を持ち、実際に行って現地の人のお話を聞いてみたかったからです。ここから、1日ずつ僕が体験したことをまとめます。
1日目
海士町取り組み視察 海士町の取り組みの背景、島としての方針などの説明を聞きました。
島内見学 実際に取り組みが行われている現場を視察しました。
2日目
サザエ漁 伝統的なかなぎ漁を体験しました。思っていたより大変でした。
魅力化PJ視察 島前高校、学習センターについての説明を聞きました。
崎みかん農作業 海士町特産の崎みかん生産を再生させようというプロジェクトの説明を聞き、実際に体験させていただきました。
3日目
崎みかん農作業 前日に引き続き、みかんの摘果を行いました。
清掃活動 港にあるキンニャモニャセンターという建物で清掃活動を行いました。
4日目
地区活動 日須賀という地区でその地区の方々と草むしりをしました。
さくらの家 ふくぎ茶という海士町特産のお茶の検品作業を体験させていただきました。
5日目
報告会 これまでの視察、体験をまとめ、お世話になった方々の前で報告しました。

研究室見学について

こんにちは。
322号室の上中ともみです。
先日、初めて大学の研究室に見学に行きました!
まず研究室を案内していただき、院生の方とお話をして、研究室の先生とお話をしました。
そこでたくさんのことを学んだので、そのことを箇条書きで書き連ねていこうと思います。
研究室見学
・大まかに二つのことをやっている。一つ目はタンパク質の結晶、二つ目は高分子化合物。
・一つ目について。結晶化の方法を説明する。目的のタンパク質を大腸菌に入れて、大腸菌を増殖させる。その大腸菌を超音波で殺して目的のタンパク質だけ残す。クロマトグラフィーなどを用いて不純物を取り除き、結晶化して、X線をあててラウエ斑点的なのから目的のタンパク質がどのような構造をしているか見る。濃度や金属とかの要素を変えて、もっとも結晶化に適した状態を探る。
・二つ目について。プラスチックの表面のCOOH其は反応性が高いから、プラスチックは他の生物(フジツボとか)がついてしまったり、別のものと反応したりしてしまう。このCOOH其を別の側鎖に変えることで、より良いプラスチックを作れる。また、生分解タンパク質のCOOH其を変えることで、カテーテルや医療用の糸などに利用できる。
先輩のお話
・TOEICとGPAはとっておいたほうがいい。
・TOEICの単語帳とか読んで、今の英語力をキープしたほうがいい。
・勉強、バイト、部活、全部楽しむ。
・学部生の間に海外旅行とかしといたほうがいい。
・別の学部の院にいくこともできなくはない。
先生のお話
・第三世代抗がん剤について
・抗体にビオチンと強い結合を持つ要素を加える。抗体を先に体内に入れて、抗体が何時間かかけてがん細胞にくっつく。そこにビオチンを入れると数十分で抗体とくっつく。ビオチンに放射性同位体などのがん細胞を破壊する働きを持つものをくっつけておくことで、抗がん剤の働きを持つ。
・体内にはビタミンがあり、ビタミンとビオチンは似ているため。ビオチンが抗体と結合する前にビタミンと抗体が結合してしまう。それを防ぐために、抗体の側鎖を色々変える。それにより、人工のビオチンのみ抗体に結合するようにする。
・タンパク質を体内に入れるとき、体内にあるタンパク質と同じような配列を持つものでないと体が拒絶してしまう。だから、新しく作ったタンパク質は、ヒトのタンパク質情報をもつコンピュータに入れて、体が受け付けるタンパク質の配列に変える。よって、分子細胞情報学は重要な役割を持つ。


なんだかレポートみたいな感じになってしまいました笑
それくらい研究内容が面白そうで印象に残っています。私はまだ専門的な勉強はしていないから正しく理解できていないと思うので、何年後かにこのブログを見返して間違いを指摘できように、ちゃんと勉強しようと思いました。

ミャンマー旅行4

上の写真は街の通りでフルーツやお菓子を売っている様子、下の写真はミャンマーがかつてイギリス領であった時代に築かれた建物です。
今回ミャンマー に行ってみて、ミャンマーの人々の生きようとする力や、勢い、街の活気に圧倒されました。日本にいたら気づかない、日本の便利さ、清潔さも感じました。また、ミャンマー の人々の親切さや、穏やかさに驚きました。チップ目当てでなく道案内をしてくれたり、目が合ったり話したりすると必ず微笑んでくれました。
大学に入ってから約4ヶ月間、ビルマ語、ミャンマーの文化や歴史についてを少しずつ学んできて、実際に今回ミャンマー に行ってみたことで、学んだことを確認できたし、行って見なければ分からない新たなことを知ることも出来ました。今回は英語を使うことが多かったのですが、これからもっとビルマ語を上達させて、現地の人とビルマ語で
会話できるようになりたいです。文化や歴史のこともより深く学び、次は地方にも行ってみたいです。

この経験から、大学での留学や、将来のことも考えていきたいです。
今回のこのような経験をさせてくれた両親に感謝しています。

ミャンマー旅行3

上から順に、フルーツ、カレー、モヒンガーです。ミャンマーのフルーツは本当に新鮮でおいしく、見たことのないフルーツもたくさんありました。フルーツ大好きな私にとっては楽園です。
ミャンマーのカレーは日本のカレーと異なり、ご飯に会うおかずという感じでした。
モヒンガーはミャンマーの伝統料理で、魚のスープに米粉の麺が入っています。香辛料が使われていますが、とても食べやすく、私は気に入っています。

ミャンマー旅行2

ヤンゴンで最も大きなマーケットであるボージョーアウンサンマーケットの周辺の写真です。多くの人々で賑わっています。このマーケットでは品物に値札がついていないことが多く、日本人など外国人に対してはとても高く売ってくることが多いです。ここで私は今学んでいるビルマ語を少し使いながら値引き交渉に挑戦しました。最初は全く応じてくれませんでしたが、根気強く交渉すると応じてくれました。また、この写真にはタクシーが写っていますが、このようなタクシーなどヤンゴンで使われている車は日本車がほとんどです。タクシーには割と安く乗ることができるので、今回の旅行ではよく利用しました。これも交渉を重ねて適当な値段で乗ることができました。このミャンマー旅行で私の値引き交渉スキルがかなり高まった気がします。

ミャンマー旅行

321号室の佐藤萌衣です。
今回わたしはミャンマー へ行ってきたので、そこで経験したことを紹介します。
上からミャンマー、ヤンゴンにあるシュエタゴンパゴダ、チャウタッジーパゴダ、Ngar Hyatt Gyiパゴダです。パゴダ(仏塔)は至るところにありミャンマーの人々に深く信仰されています。外国人観光客も多いのですが、僧やミャンマーの人々が多く集い、熱心に何かを唱えたり祈ったりしています。ミャンマーの人々にとっての仏教という存在の大きさを感じることができました。

古民家改修での新体験!!

こんにちは!最近ホームページを2つ更新しました寮生の下舞です。


今回は、2回生になって新しく入ったサークルでの活動について書きたいと思います。
そのサークルは、主に観音寺という集落での活動や、夢前での古民家改修などを自分たちで考えながら進めているサークルです。(正直説明するのが難しいです…)
こ、今回は、古民家改修ということで7月の土日に泊まりがけで行ってきました!


今行っているのは、キッチンのあたりの床下を全部あけて一から大工さんのように造っていく作業です。行ってみて本格的でとてもびっくりしました!
シロアリ予防の対策やビス打ち、ベニヤの釘の打ち付けに板張り…と大工さんになった気分♪
上回生に教えてもらいながら、他の新入生とともに汗まみれで作業に取り組みました!とにかく蒸し暑かった…
それもそのはず、ちょうど梅雨真っ只中で、湿度計が狂わんばかりのムシムシ感。そのせいで、いろんな所が緑色のフワフワしたもので覆われていました…


いろいろと寛容にならないとやっていけない作業でしたが、協力し合いながら作業が進んでいったり、みんなでごはんを作って食べたり、寝袋で寝たり…と普段できない経験を一気にできて、とても楽しく充実した2日間でした✨
クタクタになりましたが、それ以上にとても楽しかったので大満足でした!

また参加したいと思います♪


以上、古民家改修の話でした~!

日本語とモンゴル語について

こんにちは。三回生の福場です。今回は、いま僕が学んでいるモンゴル語と日本語の関係について書こうと思います。
「アルタイ系諸言語」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか?モンゴル語はアルタイ系諸言語の一つであり、日本語もしばしばアルタイ系の言語だと言われることがあります。
このアルタイ系諸言語は何かと言うと、いくつかの共通した特徴を所持しており、同一の起源を共有するのではないかと長年議論が続いている三つの言語群を指します。すなわち、モンゴル高原周辺のモンゴル語族(モンゴル語など)、北方のツングース語族(満州語など)、西方のチュルク諸語(トルコ語など)です。その共通する特徴とは、①語順(SOV型)、②流音(r、lなどの子音)が語頭に立つ単語が少ない、③母音調和を持つ、④膠着語、などの点です。最後の膠着語とは、主格や目的格などの文法的機能を示す機能語(日本語で言う「が」、「を」など)を、単語の後ろに接続することで文法的機能を示すタイプの言語です(「彼」+「が」/「を」→「彼が」/「彼を」)。英語は語順によって文法的機能を示すのでこれに当たりません。③の説明は長くなるので割愛します。
日本語も、③を除いてすべての特徴を持ちます。これが「アルタイ系」と言われる所以です。では、日本語も同じ系統関係にあるのでしょうか。
それぞれの言語群の中では系統関係がすでに証明されています(=「語族」)。しかし、全体ではまだ証明されておらず、反論も多く提示されており議論が続けられています(そのため「語族」ではなく「諸語」と呼ばれます)。
そもそも、何を持って同系だと証明するのでしょうか?もっとも根本的な着目点は「音韻対応」です。それぞれの言語で共通する語彙をピックアップして比較し、それぞれの子音に規則的な対応が見られるとき、「音韻対応が存在する」と言います。音韻対応が存在されれば、同系であることはかなり確からしいとされるのです。この三つの語族の間には、お互いに音韻対応の関係を持つ語彙が10~20%存在しますが、残念ながらこれでは証明するのに十分とは言えません。
翻って日本語とモンゴル語ではどうでしょう。さらに残念なことに、ほとんど存在しません。また、日本語と文法がよく似ていることで有名な朝鮮語ではどうでしょうか。これも同じく、お互いに音韻対応の関係を持つ語彙はほぼ存在しません。地理的に近く、文法がそっくりであっても、実は何の関係もないのです(正確には系統関係が「証明されていない」だけで、無関係であると言い切るのは難しいのですが)。
結論としては、日本語とモンゴル語の間には何の関係もないだろう、と言うことになります。しかし、このふたつに限らず、トルコ語から満州語、朝鮮語にいたるまで、文法的な共通点は多く、なぜ別起源の言語が似た形式を持つに至ったのかなど、切り口は多くあります。これからも注意深く観察して自分の洞察を深めたいと思います。

就職活動の苦労

どうもこんにちは。現在、自治会副会長を務めております。二回生の柳楽と言います。最近暑いですね。どうにも都会の夏というのは本当に暑くなったり寒くなったりするので疲れてしまいます。皆さまも体調管理には気をつけて。夜寒いですからね。
それはともかくとして、今回就職活動を通して感じたことを話そうと思います。

まず一つ目として、「持ってる資格の数とかどうでもいいからまず喋ろう」ということでした。
これは面接試験での話なのですが、「自己PR」と言えば、面接で聞かれることのナンバーワンの質問ですよね。コレを一番初めに受けにいった企業で喋ることができなかったということで、この会社を受けに行ったクラスメートのうち、私だけがお祈りメールをいただいたという結果で落ち着きました(笑)
このことから学んで、これからも生かしていきたいことが、「とりあえず喋る」ということでした。私の父親も「喋れない奴はクソだ」と耳にタコができるくらい言っていましたが、いやはやその通りだと思います。クソは言い過ぎですけどね。しかし、喋らなければやはり何も伝わらないし、エスパーでもない限り喋らないでいいなんてことはありません。
ともかくこれらの経験を通して、いかに自分の考えを相手に伝えられるか、ということの大切さ、難しさを感じました。

結局十数社くらい受けて、本命の企業一社だけに内定したというまぁ及第点位な就職活動の結果でしたが、自分の中でとてもいい経験になったと思います。島根ではこうはいかないんじゃないかと。いや、わかりませんが。
しかしそれにしても、学生会館での経験は本当に面接でもかなり役に立ったので、このような環境に身を置けるというのはありがたいことだなと思いました。皆さんの就活の際の話のタネになるような行事を作っていけるように、副会長として頑張っていきたいところですが、なかなか難しいもので皆さんと話したりしているうちにみんなと何かできるようなことを思い付けば、提案してみたいと思います。

淡路島でサイクリング

一回生の佐藤です。
この前の土曜日、淡路島へ行ってサイクリングをしました。雨も降ることがなく良いコンディションの中で海や自然の景色が綺麗で、さわやかな海風が非常に気持ちがよかったです。本当は一周したかったのですが、私の班は70kmほどしかこぐことができませんでした。これから経験を積んでもっと長い距離をこげるようになりたいなあと思っています!

5月26日に「先輩から元気をもらう会」を開催しました。

307号室の吉岡です。

526日に「先輩から元気をもらう会」という会において、株式会社創晶の代表取締役社長の安達宏昭さんをお招きし、ご講演いただきました。その感想を書かせていただきます。

こちらの準備不足のため、拙い文章になってしまうことをあらかじめお詫びしておきます。

安達さんのご講演の中では、タンパク質の結晶化といった科学の話、それをどのように利用したか等のビジネスの話、自身の経験の話など、様々なお話をいただきました。それらのお話の中で、全体的に共通していた点が二点あると考えました。

一点目は、悪いと思われていることにも良いことはあり、良いと思われていることにも悪いことはあるという逆説です。これは、物事の評価を考えるときに、多面的に考えると常にトレードオフが伴っているということだと思います。例えば、「大企業は組織が大きく、ベンチャー企業は組織が小さい、ゆえに大企業は安定している」という話をあげましょう。これは確かに正しいのですが、「安定性」という一面的な評価に留まっています。他の評価点、例えば「仕事の自由度」という評価点からみてみると、大企業よりも組織の小さいベンチャー企業の方がより自分のやりたいように仕事ができるでしょう。当然、「組織が大きい」ことと「組織が小さい」こととは同時に実現できませんから、「組織が大きいこと」による「安定感」と「組織が小さいこと」による「仕事の自由度」は、トレードオフの関係にあると言えるでしょう。それだけなら誰にでもわかることなのですが、世間ではある一面的な評価が特に重要視され、それが固定観念を形成しているということは多くあります。そうした評価、固定観念にとらわれず、多面的な評価をすることが大事だと思いました。安達さんは「自分で決定することも大事」というようにも仰っていましたが、このことと同義のように思いました。

二点目は、今やれることをやるという積極的な態度です。この点に関しては、プレゼンテーションや質疑応答の時間を通じて何度も強調されていた印象ですが、特に私が質問したときのご返答から強く感じました。プレゼンテーションで「日本をベンチャー起業しやすい国にしたい」と仰っていたので、私は「日本をベンチャー起業しやすい国にするための具体的なプランはありますか?」と質問させていただきました。この時私は、「きっとベンチャー起業を支援する組織の設立のような構想が頭の中にあるだろうな」と思っていたので、返ってきたご返答にはっとさせられました。それは、「創晶を維持すること」と「現行のベンチャー起業支援プロジェクトに参加する人を一人でも多く増やすこと」というものでした。そうした、今できること、小さな日々の努力の積み重ねが、ゆくゆくは大きな結果をもたらすのだと思いました。

その他にも色々学ぶところはありましたが、私は特にこの二点に関して特に強く思うところがあったので、この二点をもって感想としようと思います。

安達宏昭さん、お忙しい中わざわざ島根県育英会大阪学生会館でご講演いただき、ありがとうございました。

最近の出来事

こんにちわ。今年度副会長やらせてもらっている二回生の木透です。つい最近友達3人と神戸にある「三井アウトレットパークマリンピア神戸」にいってきました。寮からJRの最寄の千里丘駅から16駅あったのでかなり遠かったです。ですが、このアウトレットは海に面しておりとても眺めもよくそして大きかったです。いろいろな店舗があり品揃えもよかったです。僕はNIKEが好きなんでNIKEに入りTシャツ2枚とパ-カーを買いました3点で5千円でした。めちゃめちゃ安かったです。色々買い物したあとに最近はやりのタピオカを飲みました。「THE ALLEY」というお店でした。味は抹茶の黒糖のタピオカでした。最初はとても美味しかったんですけどすぐお腹いっぱいになりました。
そのあと神戸を歩き周りました。神戸でも色々な店を見て回りました。
皆さんもぜひ行ってみてください。おすすめです!

大阪のつけ麺恐るべし!

こんにちは。今年度会長を務めさせていただいている坂根です。皆さんはこのGWをどのように過ごしていましたか。私は、家族が大阪に遊びに来たので、今までに大阪周辺で食べた中で印象的だったつけ麺屋に案内しました。それが「時屋」です。ご存じでしょうか。人気店で、JR新大阪駅から歩いて数分の場所にあります。ここでは「豚つけ麺(濃厚豚骨魚介)」「鶏つけ麺(上湯鶏醤油)」「辛つけ麺(上湯鶏醤油)」が食べられます。今回私は豚つけ麺をいただきました。実は前回こちらにおじゃました時にも豚つけ麺を食べたんですが。こってりした味ですが、後味がすっきりしていてこってり系が苦手な人でも食べやすいです。また、つけ麺を食べた後にだしごはんが出されます。つけ麺のだしをだしごはんにかけていただきます。つけ麺の味にあっただしごはんが出されるので、注文したつけ麺によって種類が異なります。ですので最後の最後まで楽しめますし、たくさん食べる人もおなかいっぱいになることでしょう。家族も非常に喜んでくれました!

 もしまだ訪れたことのない人はぜひ一度行ってみてください!つけ麺の常識が覆ること間違いなしです!

好きな武将はバジオウです!

皆さんGW楽しんでいますかー?元会長の古田です(笑)
久しぶりのブログ更新です!
今日は私の大好きな漫画であり、自身のバイブルになっている『キングダム』について少し話したいと思います。
キングダムは、中国の春秋戦国時代を舞台とし、秦が中華統一していくストーリーを描いたものです。後に秦の始皇帝となる国王『嬴政(えいせい)』と下僕の身から大将軍を目指す『信』この二人が中心としつつ、国王、武将、軍師など様々な登場人物が敵を含めて魅力的に描かれています。

私がこの漫画をバイブルとしている理由として、キングダムに登場している人物たちの《言葉》には、今後社会に出て行く学生には教訓となるものがたくさんあります!また、仕事をして行く上で社会の集団に入っていきます。その集団の中でリーダーとしてやっていく、指揮していくのに必要なことをキングダムから学ぶことが出来ます!
私自身、学べる漫画に初めて出会いました。ぜひ読んで見てください!また、それに加えて関連した書物が2冊出版しているのでこれも見てもらえるとより深く理解出来ると思います!


さて、キングダムは漫画、アニメ化ときて4/19~映画が絶賛公開中です!
私は早速見に行ったのですが、感想として、、、
①漫画の世界観を壊さず、かつスケールが大きかった!
②何といっても、戦闘シーンが興奮します!
③セリフ1つ1つの言葉が心に刺さります
④キャストが全てハマり役です!
などなど語ることがたくさんあります笑
もう一度漫画を読み直そうと思いました。
ぜひGW中映画KINGDOM見に行ってみてください!
夢中になること間違いなしです!

映画公式サイト
https://kingdom-the-movie.jp/sp/index.html

映画KINGDOM

週刊ヤングジャンプで連載です!

キングダムに出てくる言葉から教訓となることを学べます

リーダーになるには何が必要かキングダムから学べる書籍です!

2019年新歓~Welcome to 大阪学生会館~

こんにちは。3回生の寺井萌乃です。
4月13日に10人の新寮生を迎え新歓コンパを行いました。
今年もフレッシュな新寮生!!ゲームにお話に楽しいものとなりました!自分の恋愛観について語る人、桜ソングを歌う人、いたるところで楽しそうな声が聞こえてきました!
この時期になると、私が入寮してきた2年前を思い出します。島根から家族のいない大都会、大阪に引っ越し、不安な時期でした。そんな私を、寮の仲間たちや、館長夫妻が支えてくださり、今日までやってくることができました。家族がいない大阪でも、帰宅すれば「おかえりなさい」といってもらえる幸せや、自分の話を聞いて真剣に考えてくれる仲間たちの存在を日々かみしめています。寮の仲間が第2の家族のようです。今、この内容をブログに書いていてもこの幸せを思い出し、心が温かくなってきました。
新寮生も今はとても不安な時期だと思います。そのすべてを拭い去ることは難しいかもしれませんが、ちょっとでも不安が安心になるお手伝いをできたらいいなと考えています。
今年1年、新寮生を加えたメンバーで張り切ってやっていくので、よろしくお願いします!!

ミャンマー旅行4

上の写真は街の通りでフルーツやお菓子を売っている様子、下の写真はミャンマー がかつてイギリス領だった時代に築かれた建物です。
今回ミャンマー に行ってみて、ミャンマー 人々の生きようとする力や、勢い、街の活気に圧倒されました。日本にいたら気づかない、日本の便利さ、清潔さも感じました。また、ミャンマー の人々の親切さや、穏やかさに驚きました。チップ目当てでなく道案内をしてくれたり、目が合ったり話したりすると必ず微笑んでくれました。
大学に入ってから約4ヶ月間、ビルマ語、ミャンマーの文化や歴史についてを少しずつ学んできて、実際に今回ミャンマー に行ってみたことで、学んだことを確認できたし、行って見なければ分からない新たなことを知ることも出来ました。今回は英語を使うことが多かったのですが、これからもっとビルマ語を上達させて、現地の人とビルマ語で会話できるようになりたいです。文化や歴史のこともより深く学び、次は地方にも行ってみたいです。

この経験から、大学での留学や、将来のことも考えていきたいです。
今回のこのような経験をさせてくれた両親に感謝しています。


防火避難訓練

5月15日9:30から防火避難訓練がありました。平日の午前中で授業があることもあり、参加者は多くはありませんでした。一昨年近隣で全焼する火事があり、昨年は北大阪地震と災害が身近で起こったこともあり、例年になく身近な気持ちで参加しました。放水の際のホースの水圧の大きさや、避難訓練の避難ばしごの工夫等驚かされることも多かった訓練でした。今後予想される南海トラフ地震や地元から求められている災害ボランティアにも活かしていきたいと思いました。

夏季休暇に

夏季休暇に入りました!

2回生の奥田です。
コロナ禍により、大学がオンライン授業に移行し、膨大な量のレポートなどつらいことも多々ありましたが、何とか乗り切れました。レポート地獄のおかげで、春学期を通してタイピングだけは無駄に早くなったような気がします。
最近は、この夏季休暇を何して過ごそうか思案している間に一日が過ぎるという、なんとも生産性のない日々を過ごしています。
時間を無駄にしたくないという思いから惰性でTOEICの勉強をしています。というのは、英語は留学に行く前提で勉強していたからです。本来コロナがなければ8月末からカナダに8か月ほど滞在する予定でした。留学がなくなった今、とりあえず750点を目標にしていますが、マジで惰性で勉強している感じです。
そのほかには、ゲームしたり、Netflix見たり、サッカー観に行ったり、鬼のようなしんどさの夏期バイトしたり、爆睡きめたりと、客観的にみても大学生だなーという生活をしています。旅行もしたいですね。僕は行きたいんですが、ほかの友達がコロナに対してどう思ってるのかわからないので、誘うのがめんどくさいなって思ってます。
あと、大学から夏休みの宿題が出されているのでそれもやらないといけないです。論文20本読んでそれぞれをレジュメにするというシビアな課題です。教授は僕らのことを中高生だと思っているのでしょうか、会ったら聞いてみたいです。
こんな感じでやりたいこと、やらないといけないことを羅列してみたら意外と夏季休暇中暇することはなさそうであることが分かりました。良かったのか悪かったのか知りませんが、とりあえず頑張って生きていこうと思います。
まとまりのない記述ですみませんでした。終わります。

TENET

こんにちは。2回の奥田です。
急に寒くなってきましたね。前回寄稿した際から半年くらい経ちましたが、変わったことは食事の際カロリーを管理するようになった以外特にないです。


先週、大学帰りに京都の二条駅前の映画館で「TENET」を観てきました!

手がけたのは、「インターステラー」などで有名なクリストファー・ノーランです。映画をよく見る人なら誰もが知っている有名な監督さんです。感想は、、、とにかく凄い(語彙力皆無)。内容が難しすぎて全然理解が追いつきませんでした。ここで内容を言ってしまうとネタバレになるので言及は避けます。


観に行った映画館はIMAXという技術に対応した数少ない映画館で、他の映画館より500円ほど高かったのですが、その映像技術に圧巻しました。映画内容もそうですが、エンドロールに流れる、トラヴィス・スコットの楽曲「the plan」の重低音感が凄くて、体がゾクゾクしました。そこに一番の感動を覚えたと言っても過言ではないです笑
内容理解を深めるために、そして楽曲の重低音をもう一度味わいたくなったので、また今度2回目を観に行きます。


エキスポにある映画館は日本最大級のスクリーンがあると聞いてはいたものの、まだ行ったことがないので、そこで観たいと思います笑
皆さんも是非観に行ってください!