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スピーチコンテスト

堀江侑南です。本日12月6日スピーチコンテストがありました。様々な学科の方たちとの交流する機会にもなりました。また、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、などなどたくさんの言語でのスピーチを聞くことができました。私は、英語、中国語を基本に学んでいるので、スピーチを聞いていてとても楽しかったです。他の言語は全くと言っていいほどわからなかったのですが、聞いていてとても楽しかったです。私も、もっとたくさんの言語に触れていきたいと感じました。三月からフィリピンとアメリカにいってきます。様々な国籍の方たちとふれあい学んでいきたいです。

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)part2

第二回恋に落ちるとはいかなる経験か
                                   賀戸佑丞

  本章では恋に落ちるという経験はどのような特徴をもっているかを詳述していく。読者の中には恋人のいたことのない筆者にそんなことができるのか、野暮なことはするなと思う人もいるだろう。だが安心していただきたい。本章の記述はジジェクの著作中の断片をまとめ、多少私の想像を補うことで成立している。個人的には抽象的であるが、恋に落ちるという現象の本質を捉えたものになっているのではないかと思う。では早速本題に入ってみよう。

 

○「恋に落ちる」ことの特徴

 恋に落ちるとはいかなる経験なのか。それは上述の二つの恋愛とは異なったものである。その特徴は特に市場化した恋愛の特徴をきれいに反転させたものだと考えている。一つずつ確認していこう。

 まず一つ目が恋に落ちる者に選択の余地はないという点である。いや厳密にいえば誰に恋するかという選択はなされている。しかしその選択は「絶対に現在に訪れず、つねに/すでになされてしまっている」ものである。つまり恋に落ちる相手は自由選択で選ばれているが本人の意識の流れのなかでは自覚的に選択するような機会はないのである。恋に落ちた者にとっては自らの幻想空間の中の「理想の恋人」の椅子に勝手に座られるようなものである。彼/彼女は最初この事態をうまく呑み込めないが、少し時間がたてばとんでもないことが起こっていることに気付く。このような相手は人生で一度きりしか巡り合えないのではないかと感じる。

 ふたつ目は恋に落ちる時に、相手のポジティブな特性の積み上げの結果として相手を好きになるわけではないという点である。恋に落ちるとは自分と異性との理想的な関係という幻想を現実化するうえでぴったりの「役者」を発見するようなものである。この役者の条件は一般に「恋人に求めるもの」という形で語られるようなはっきりとしたものではなく、きわめてあいまいで言語化困難である。それでもひとつ言えそうなことは、それが恋に落ちる者の過去の経験に関係しているということである。すなわちその役者は過去の人間関係(例えば異性の親など)や自分が失ってしまったもの、手に入らなかったものを連想させるのであることが多い。この意味において恋に落ちるとは反復なのだ。恋に落ちる時この条件に無自覚である場合が多いため自分が恋に落ちた時に初めて自分が本当に恋人の条件として求めているものが何なのかを知ったりする。

 役者の条件と直接関係ないような特性についてはポジティブなものであれネガティブなものであれ相対的にその重要度は低くなる。しかし役者の条件に関わってくるような特性については過剰に反応する。条件に適合している特性については過大評価しがちである。また条件から逸脱するような特性については、一般にポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと不愉快な感情を掻き立てられる。一度自分が理想の恋人という役を与えた相手がこのような特性をもっていたら、最初はそれを見て見ぬふりをしようとする。しかし遅かれ早かれ自分が今まで相手に対して自分の幻想を投影していたこと、そして相手は自分が思っていたような役者などでなく固有の人格をもった存在であるという事実に直面する。ここにおいて恋に落ちたものの取りうる手段は①幻想のシナリオを逸脱しつつある劇を放棄する。②終わりのシナリオを付け加えて劇をきれいに終わらす。③幻想のシナリオ自体を修正する、である。これらは現実にはどれか一つが選択されるというより自分の幻想と実際の相手とのギャップの程度によって使い分けられるだろう。これらの手段についてはのちに再び触れる。

 みっつ目は恋に落ちた時点では等価交換は成り立たないという点である。これはもちろん経験的に好きになった相手が自分にとって不相応なほど魅力的であることが多いということでもある。しかしここで言いたいのはこの現象が構造的に発生するということである。恋に落ちた者は自分の幻想の中の理想の恋人の条件を満たした人物を見つければ何とかして相手をその恋人の位置に引き込もうとする。そのときに恋に落ちた側はいちいち等価交換が成り立っているのかどうかなどと考えない。相手に替えは利かず、この人でなければ意味がないとしか思えないからだ。事態は切迫し、場合によっては自分が是が非でも変わらなければならないことを自覚する。かつてなんとなく恋人が欲しいとか異性からの承認が欲しいと考えていたことが間抜けだったと思えてくる。相手の一挙手一投足に対し一喜一憂しナイーブになる。恋する者はこの試練をくぐり抜けなければならないのである。

 

○恋に落ちることの負の側面

 ここまで恋に落ちることをどちらかと言えばロマンチックなものとして、好意的な記述してきたが当然負の側面も併せもっている。しかしこの側面を避けようとすれば恋に落ちることの実質的な部分は失われてしまう。いいとこ取りはできないのである。では負の側面と考えられる特徴を挙げていこうと思う。

 まず恋に落ちるという経験は恋に落ちた側にとっても相手にとっても暴力的だということである。ジジェクの言葉を借りれば、主体にとって恋に落ちることとは「とんでもない不運」であり、「恐るべき寄生体」に取り憑かれることであり、「全てのささやかな楽しみを台無しにする永続化された緊急事態」である。また相手にとっても恋されるという経験とは熱烈な好意を向けられる立場に立たされることであり、それ自体が外傷的である。仮に最終的にそのことを好意的に思うとしても最初は「何か猥褻で闖入的なものが押し付けられた」と感じ困惑する(注1)。つまり程度の差こそあれ、相手に好意を告げるという行為自体がハラスメント的なのである。

 次に挙げたい負の側面は、恋に落ちてもその後の関係はうまくいかない事が多いという点である。これの意味するところの一つは、こちらが好意をもっていても相手が好意を持っている、あるいはこれからもつ可能性は低いということである(注2)。二つ目の意味は相手が自分の想像と違っていた、思い違いだったということが多いということである。上述の通り恋に落ちるという経験は自らのもつ幻想の中に相手を理想の異性という役で組み込むことである。よって相手を理想の異性たらしめていた諸条件が失われたりして、もはや理想の異性の役を割り当てられなくなってしまうと急速に熱は冷めていくことになる。

 (注1)また好意を向けられることに伴う困惑は、自分の理解するところの私と相手に熱烈な好意を起こさせる私の間のギャップに対する困惑でもある。

 (注2)私は少なくない数のカップルが日常生活の中で自然にお互いに好意が湧き、ある程度相手が自分に好意を持っていることが確信できる段階で正式に付き合い始めるという手順を踏んでいるという事実に驚かずにいられない。実際にそのようなプロセスがあることは想像できるが具体的にどうしたらそんなことが起こるのか見当がつかないのである。

 

○負の側面の克服

 以上の負の側面は克服できるものだろうか。私は恋愛からその暴力性を完全に取り除くことは不可能であると考えていると考えている。もちろん事前に予想できる相手に対する暴力性については最大限の配慮がなされるべきである。しかし潜在的なものも含めてあらゆる暴力性を排除することは不可能であるし、それをしようとすれば恋愛はしないほうがいいということになる。よって負の側面の克服は無理である。

 一方で私は恋に落ちたその後に伴う難しさについては克服可能であると考えている。ではどのような方法があるか説明していこう。まず相手が自分にとくに好意をもっていないという状況であるが、これは各自で頑張るしかない。探せばいくらでもマニュアルみたいなものが見つかるだろうが、正解はない。個人的には相手のことをよく観察することが大事であることは間違いなく言えるだろうと思う。(注1)

 次に相手が自分の思うような人物でなくて情熱が覚めてしまうという場面に対する対処法を述べたいと思うこれには二つの方法を考えた。

 一つ目はドラマや映画でよく使われる恋愛や愛の美しさを永遠にするための手法である。つまり相手への情熱が最も盛り上がった瞬間や二人の心が通じあったように見えた瞬間に、どちらかが物語から退場するという手法である。これによって相手への思いや恋はその美しさのまま記憶に残すことができる。もし相手への熱が冷めたり、失望したりすれば恋そのものが消滅してしまう。それよりは恋の相手自体を失ってしまうほうがましなのである(注2)。この方法は自分で意図的に行えば意味がなく非現実的なものである(注3)。

 次にもう一つの方法というより相手への失望という事態をうまく乗り切るための心構えのようなものを述べたいと思う。その心構えとは「我々は真実を直接知ることはできず、真実に到達するためには誤認が必要である」ということである。恋に落ちた者は遅かれ早かれ、相手が自分の考えていたような理想の異性でないことに気付くことになる。この時に多少なりとも相手への情熱は冷めてしまうわけだが、しかしこの誤認は相手の特性をよく知るうえで必要な誤認なのである。なぜ誤認抜きで直接真の特性を知ることができないのかをあえて観光を例に説明してみよう。我々はどこかに観光する際にその土地に対し事前に何らかのイメージを持っている。そして実際に観光してみた時にその観光地の実情は事前のイメージとは異なることに気付く。重要なのはこのプロセスにおいて事前のイメージ抜きに直接実情を知るということは実際には起こりえないということである。事前にイメージをもつこと、あるいは強い興味をもつことがなければ、真実を知るところまでたどりつけないのである。なので単に失望してしまうのではなく相手の真の特性を知る機会を得たのだとポジティブに捉え、相手の簡単に表面に出てこないような素晴らしい特質を発見できるように粘り強くアプローチすべきである。(もちろん結果論として早く諦めるべきだったという場合はあると思うが。)

 そしてもう一つ心に留めておきたいのは「他者の中に見つけた欠点の中に我々はそれとは知らずに、自分自身の主観的立場の虚偽性を見出す」ということである。本章の流れで言えば、相手の中の特性を受け入れがたいと感じるのは、相手を自分の幻想を通して見ているがためである。このような場面は自身の主観性、自分が相手に投影している幻想を反省的にとらえるチャンスである。これによって自らの幻想を組み替えることが可能になり、結果として当初許容することが難しかった相手の特質を受け入れることができるようになるかもしれない。

 (注1)私が勝手に要約したジジェクによるアドバイスは「お互いに見つめ合っていても好意は生まれない。好意とは本質的に副産物であり、それ自体を目的にすることはできない。幸せな恋愛関係を手にするためには第3の共通する原因をもつ必要がある。」

 (注2)ジジェク曰く、憂鬱であるとは欲望の対象はあるけれど欲望そのものを失ってしまうことである。つまり欲望された対象を欲望させる何かを失うということである。

 (注3)しかしこの方法が現実には全くとられていないというわけではない。いわば無意識的にこのような方法がとられることがある。例えば本人にそのつもりがなくても相手への失望を予期したり、相手は特に自分に関心がないという事実に直面するのを回避するために疎遠になるような行動(あるいは非行動)をとるような場面が考えられる。

 
○別の仕方で考える

 本稿の目的は「恋に落ちる」という経験を肯定することである。今回の記事は「恋に落ちる」とはどのような特徴をもった経験なのかを記述してきたが、どうも肯定できるところまではいってないように思う。なので「恋に落ちる」という経験を別の切り口で語りたいと思う。

 そもそも私が「恋に落ちる」という言葉で想定している事態は具体的には意図しない形で自分の見える世界が変わってしまうような、そして関係性の中にどうしようもなく巻き込まれてしまうような経験である。すなわち能動と受動の境界をはっきり引くことができないような経験である。一般に流通している言葉で言えば「恋は盲目」が一番しっくりくる。

 私は「恋に落ちて」見える世界が変わるとはその人の固有の意味世界が一変することだと考えている。では意味世界が一変するとはどのようなものなのか。これを説明するためにジジェクのイデオロギー闘争の説明を参照したい。ジジェクによるとイデオロギー闘争とは言葉の意味を確定させる特権的な地位をどのイデオロギーが占めるのかという闘争である。具体例を示そう。「自由」が意味することは保守側から見るかリベラル側から見るかで変わる。すなわち保守側から見れば「自由」とは国家が介入しないことであり、リベラル側からみれば国家が積極的に再分配を行うことで達成されるものである。ここで我々にとって大事なのは特権的な地位を占めるものが変われば意味世界が一変してしまうということである。

 まさに「恋に落ちる」ということはこの特権的な地位を恋愛が占めるということではないだろうか。日々の行動の意味が変わってしまう。それまで無頓着だった服装に気を配る。あの子との会話での話のネタを拾うことを意識して生活する。あの子からみて好ましい人間になれるように努力するetc...。恋に落ちた者が活動的になるのは新たな意味世界を手に入れたからである。

 もし恋愛が終わってしまえば意味世界は再びもとに戻る。しかし人にとって一度与えられた、見出された意味を失ってしまうことは耐え難い苦痛である。あらゆる意味が失われてしまったように見え、後に残るのは抜け殻の世界である(注1)。恋に落ちている者はそのことを予感しているため難しい状況でもその恋を自分から手放すことができない。

 (注1)最初から何もない場所には何もない。一度でも何かが存在し、そして失われたならばそこに残るのは欠落である。

  次に関係性に巻き込まれるとはどのような状態かを詳しく説明していきたい。ここでは題材として映画『レオン』(1994)を取り上げる。この映画は一般的に評価が高く、個人的にも好きな映画なのでぜひ視聴をおすすめしたい作品である。この作品の内容を一言でいうと、これまで根無し草のように生きてきた殺し屋が少女との交流の中で生きる望みを見出す話である。(殺し屋と少女の関係は恋愛ではないが、殺し屋の側に意味世界の変容と関係への巻き込まれが起こっているためここで扱うのは適切であると考える)。しかしこの映画を別の見方をすると、魔性の女に人生を狂わされた男の話ということもできる。殺し屋は少女のためにやった勇み足が原因で最後には死に、もし少女と出会わなければ淡々と殺し屋稼業を続けていたであろうからである。我々はこの映画で描かれている“美しい愛”に素直に感動するだけでなく、関係性に巻き込まれるということの両義性を考えねばならない。

 もちろん現実世界でこのような状況はそうそうないだろう。関係に巻き込まれ自らの命を危険にさらしてでも生きる望みをとるか、それとも生きる望みが手に入らなくても関係に巻き込まれない安全な生活をとるかという選択はあまりに極端な考え方である。しかし最初から安全な道を優先し関係性に巻き込まれることを避けようという態度でいれば生きる望みと言えるような強い欲望をもてるようなことはないのではないだろうか。死ぬとまではいかなくても予測不可能なリスクを引き受け関係性の中に身を投じなければ生きる望み、生きているという感覚は得られないのではないだろうか。

 人が恋に落ちれば固有の意味世界が一変する。さらに関係が深まれば自分の欲望と相手の欲望の区別はあいまいになる。だから人は恋に落ちれば日々の生活が生き生きと感じられ活動的になるのだがその反面常識的に考えれば不可解な行動をとる可能性が高まる。もちろんどのような選択をするかは個人の考え方の問題であろう。しかし私は、生きる望みが欲しいのならば、生きている実感が欲しいのならば深い関係の中に身を投じるしかないと考えている。これは必ずしも恋に落ちることが前提の話ではない。これはより広く愛の領域の問題である。次回は愛の分析に進もうと考えている。

 

次回につづく…

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)part1

なぜ「恋に落ちる」べきなのか(仮)

賀戸佑丞

 本記事は当初全文を一度に投稿する予定であったが、予想を超えてあまりに長くそしていつまでも書き終えることができないので複数回に分けて投稿することにした。予定では全4回くらいを考えているがどうなるかまだわからない。なるべく週一のペースで投稿できるよう努力したいと思う。

 

第1回 恋に落ちなくなった日本人

 

はじめに

 本稿のテーマは恋愛である。ひいては愛するということである。読者の中にはそのようなテーマを論じるのに筆者は不適格であると感じる方もいるであろう。自分でもそう思う。私には恋人がいたことがない。このテーマの文章を書くことを私は何度も逡巡したが、結局今一番文章として書きだして体系的に自分の考えを整理したいと思うテーマはこれだった。自分の関心のないテーマについては自分にとって面白いと思えるようなものは書けないので仕方ない。本稿は理論と概念と想像によって記述されていることをはじめに断っておく。
 この文章は個人的な趣味で書いているが一応建前として本稿の意義を説明しておこう。フロム曰く、人間にとって愛するという行為は先天的に身についている能力ではなく、後天的に学習していくものである。つまり人は各々の生活の中での活動やフィクションから愛するとはどういうことなのか、自分ならどうするかということを学んでいくことになる。しかし学習とはこのような具体的、経験的なものからのみ行われればいいのだろうか。時には立ち止まって抽象的にじっくり考えてみることも必要なんじゃないか。そしてそれが恋愛や愛についての本質的な理解、ひいてはよく生きることにつながるのではないか。本稿はこのような問題について読者が考えるきっかけになればと思っている。
 本稿のねらいと内容を簡単に説明しておく。本稿の一番のねらいは「現代の日本人は(日常生活の中で)恋に落ちることを避けるようになったが、しかし恋に落ちることは素晴らしい経験なのだ。」ということを主張することにある。内容については、まず現在日本社会に広がりつつある2つのタイプの恋愛、すなわちキャラやアイドルに恋するオタク的恋愛と、婚活など(注1)においてその論理が剥き出しになる市場化した恋愛についてその社会的背景も含めて論じる。次にこの2つの恋愛とは異なる「恋に落ちる」という現象について論じ、その意義を強調する。そして「恋に落ちる」ことのネガティブな側面とその克服について論じる。最後に愛とそれのもつ両義性について論じ、そして全体のまとめに入りたいと考えている。なお本稿ではその発想源の多くをフランスの精神分析家J.ラカン(1901~81)とスロヴェニアの哲学者S.ジジェク(1949~)に拠っていることをあらかじめ断っておく。

 

(注1)現在の日本における結婚は9割が恋愛結婚であり、見合い結婚は約5%である。つまり結婚の前提として恋愛することが必要になっている。これはなぜなのだろうか。ラカンのテーゼに「性的関係は存在しない」というものがある。これは男女の互いの持つ幻想は常に食い違うことを意味する。この食い違いを克服するためには両者のもつ幻想を包括する物語が必要になってくる。そこで登場してくるのは恋愛と愛の物語であると考えられる。婚活は市場が提供する見合いの場と言えると思うのだが、そこで重要なのは自由恋愛という見せかけが維持されることなのである。ちなみに見合い結婚とはイエの再生産の物語である。

 

第一章 オタク的恋愛と市場化した恋愛

 本章では日本で存在感を増してきている2つの恋愛、すなわちオタク的恋愛と市場化した恋愛について説明していくが、その前に統計データ(平成25年度版厚生労働白書)を基に日本人の恋愛事情を簡単に確認しておく。「現在婚約者または恋人がいる」人の割合は2005年で32.1%、2010年で24.6%であり、恋人のいる人が3人に1人から4人に1人に減少している。交際している人がいない人の中で交際を望む人と望まない人の割合は男女とも約半々である。交際を望まない人の理由としては男女ともに「自分の趣味に力を入れたい」「恋愛が面倒」と答える人の割合が高くなっている。交際相手を持たない人の交際上での不安としては、「異性に対して魅力がないのではないか」が男女ともトップであり、以下ではどのように恋愛が始まり、進んでいくのかがわからないという主旨の項目が並んでいる。以上を乱暴に要約すると、「現在恋人のいる人は減ってきている。そして恋人のいない人たちは、恋人は欲しいけど自分に自信ないし、そもそも恋愛の仕方がわからない派と恋愛は面倒、時間の無駄派に分かれている。」ということになる。


〇オタク的恋愛
 こういった認識を踏まえたうえで本題に入っていきたい。まずオタク的恋愛について説明していく。これはオタクたちが二次元キャラクターやアイドルへ一方的に恋愛感情をもつことである(彼らの言葉で言えば「萌え」や「推し」)。この恋愛の特徴はオタクたちには万能感と不能感が混在していることである。彼らは一方的に対象をまなざし、自分の好みのキャラやアイドルを品定めし、恋愛を始める。そこでの恋愛は現実の恋愛では発生するであろう様々な責任やリスクを引き受ける可能性が最初から排除されている。彼らは同時に複数のキャラやアイドルと恋愛できるし、飽きてくればいつでも降りることができる。
 しかしこのような万能感の裏返しとして彼らは圧倒的に不能でもある。彼らはキャラやアイドルから「彼ら自身」として見つめ返されることはない。どんな影響も与えることができない(仮にできたように見えても相手から見れば誰でもよかった/できたことである)。当たり前のことだがオタクたちのとキャラやアイドルの関係は一方通行であり、人格同士の関係ではない。(注1)
 ここで注意しておきたいのは、この不能感がオタクたちの主観においてどのように機能しているかという点である。実は彼らは不能であるがゆえに”真摯“に恋愛することができるのである。どういうことかというと無力で責任がないためにキレイゴトが言えるということである。オタクたちは決して手の届かないキャラやアイドルを素直に褒めたたえ、そして愛を語る。そうすることで対象は崇高な存在へと高められ、恋愛は精神性の高い美しいものとなる。

 このように恋愛の主体としてのオタクは万能感と不能感の分裂を抱えており、その主体性は貧しいものである(注2)。彼らの語る愛は時に美しいが(そして個人的にはそこまで熱中できるものがあることを羨ましく思うときもあるのだが)、それは自らの不能性の上に成立している。彼らは現実から遊離した過剰なロマン主義者といえるだろう。

 (注1)オタクたちに対し彼らの信奉するものが虚構であることをいくら指摘しても彼らは自らの考えを改めることはなく、それどころか彼らの信奉は無傷である。なぜならオタクとはイデオロギーだからである。ジジェクによるとイデオロギーにおいて重要なのはその中身、教義ではなく「人を一定方向に歩き続けさせ、心がそうと決めたらどんな疑わしい意見にも従う」という形式のほうである。その形式に自らを従わせること自体が主体に享楽をもたらすのである。つまり話を戻すと、自分はオタクであるという認識は一つのイデオロギーへの信奉であり、オタクたちは個々のコンテンツからというより、自らの行動が一連のオタク的身振りに方向づけられることから享楽を得ているのである。(とはいえやはりコンテンツから得られるフェティッシュな快楽も無視できない)
 そしてイデオロギーにとってもう一つ重要な点はイデオロギーの本来の目的(形式への服従)は主体からは隠ぺいされていなければならず、もし主体がこの目的に気づいてしまえば、享楽は得られなくなってしまうという点である。よってイデオロギー批判の最良の方法は、イデオロギーの内容は偶然的に選ばれたものであり、彼らにとって重要なのはそのイデオロギー的形式なのだという事実を暴露してしまうことである。(以上のことを踏まえれば我々の世界はイデオロギーにあふれていることに気づく。あくまでオタクとは若者を中心に大きな求心力のあるイデオロギーのひとつと認識すべきだろう。)

 (注2)注意しておきたいのは、これはオタクたちが現実の恋愛でもこのような分裂を抱えていることを意味しないということである。東浩紀氏によると「オタクたちの愛するコンテンツは現実にはなにも指示しないし、彼らの現実の生活となにも関係しない。」(「テーマパーク化する地球」『テーマパーク化する地球』2019)。オタクたちが虚構に対しどれだけ倒錯的な愛を向けているように見えても、現実では「正常な」性規範を備えている場合がほとんどである。

 

〇市場化した恋愛
 次に現代の過剰に現実的な恋愛、市場化した恋愛について説明していく。ここでの市場化とは、ネット上であれ、現実世界であれ日常生活の中では出会うことが不可能なほどの数の候補者の中から自らの恋人を選ぶ/選ばれることを可能にするアーキテクチャが整備されたことと、そのことによる意識の変化、すなわち自らを恋愛市場を流通する商品とみなすようになることを指す。では市場化した恋愛がどのような特徴をもつのかを説明したいと思う。
 ひとつ目は主体の選択の余地が大きいことである。例えば市場への入退場は個人の自由である。また膨大な候補者の中から自分の重視する特性を持つ相手を絞り込んで恋人を選ぶことができる。
 ふたつ目は相手の評価がポジティブな特性の列挙による加算方式によってなされるということである。相手のことを知るとは相手が列挙する特性を知るということである。すべての言動が評価の視線に晒されている。他者からみて好ましいと思える特性をひとつでも多く身につけるよう動機づけられる。
 みっつ目は恋人を選ぶ/選ばれる際に等価交換が成り立つかどうかが重視されるということである。自らの市場的価値を冷静に見極め、なるべく等価交換が成り立つ(またあわよくば自らが剰余価値を獲得できるように)相手を探さなければならない。(注1)

  (注1)ここまで特徴を並べてみて、これらの特徴は市場化した恋愛に固有のものではなく、昔から恋愛にはこのような側面が存在していたのではと考えるようになった。しかしそれでもこのような側面が誰の目にも明らかになってしまっていることが市場化した恋愛の特異性であるといえるだろう。

 〇2つの恋愛の社会的背景
 これで一応2つの説明が終わったことになる。次にこの二つの恋愛が現在の日本社会で存在感を増している背景について述べたいと思う。この2つに共通の背景などあるのだろうか。片や現実離れした過剰にロマン主義的な恋愛であり、片や過剰に現実的なリアリズム的恋愛である。一見互いに逆方向のベクトルを向いているように見えるが、実はある共通の特徴を有しているのである。それは自分にとって予想外な波風が立つことを恐れること、そして傷つくことを回避しようとすることである(注1)
 詳しく説明していこう。まず現代の「合理的な」人々の一部は「人生の最適化」願望を抱いているという点を挙げたい。どうすれば効率的に日常生活をひいては人生を送ることができるかが中心的関心となっている(注2)。よって非効率的なものは生活からどんどん排除されていくことになるのだが、彼らにとって現実の恋愛も非効率的なものである。彼らはまったく恋愛を望んでいないわけではないが、その金銭的、時間的、精神的コストを考えると割に合わないものであり、その分趣味、学業、仕事に注力したほうがましだと考えている(注3)。
 次に挙げたいのが現代人は他者との距離感に対して非常に敏感になっているという点である。タバコの受動喫煙やハラスメントは言わずもがなだが、善意によるものであっても単純に他者の接近は抵抗感や不快感を生じさせる危険性があるのである。よって他者からはなるべく一定の距離をとろうとするし、自分が行動する場面においても相手がどう感じるかについて敏感にならざるを得ない。

 以上のことを踏まえると現在の日本で(恋に落ちて)恋愛することが難しくなっていることが理解できる。「合理的に」考えれば恋愛はコスパが悪い。もし結婚相手が欲しければ婚活で直接結婚相手を選んだほうがコスパはいい。さらに人々は他者から傷つけられることに敏感になっている。人に熱烈な好意を向けることは相手を困惑させずにはいられないし、時に暴力的ですらある。断られればもちろん大きく落胆することになる。本気で恋愛すれば双方無傷ではいられない。
 しかしである。では我々はなるべく予想外な波風の少ない、傷つく可能性の少ない上述した2つの恋愛で満足すべきなのだろうか。果たしてそのようなリスクの排除された恋愛は恋愛と呼べるのだろうか。それはまるでアルコール抜きのビールなのではないだろうか。まさに危険であるが本質的である要素が除かれたものなのではないか。私はあくまでも恋に落ちることで始まる恋愛を志向したい。私は恋愛によって酔うことを求めるのである。

 次回につづく…

 

(注1)ラカンによると父権的権威主義が衰退し資本の論理が支配する現代では「去勢」が排除されている。「去勢」とはここでは自らのナルシシズム的万能感の喪失、あるいはナルシシズム的快楽の追求の制限を意味する。「去勢」は自分で意図的に行うことはできず、社会の側から強制されることで達成される。しかし現代ではもはや社会は個人に「去勢」を強制しない。資本主義的市場は人々を理想的な自分を目指すようにせき立てる。「あなたが望みさえすれば理想的なあなたになることができますよ、いくらでも楽しむことができますよ。」というわけである。さらにネット・SNSがこの傾向に拍車を掛けている。現代はいつまでもナルシシズム的快楽を追求することが可能な、むしろ推奨されている時代なのだ。
 しかし我々にとって重要なことは人を愛するためには自らが「去勢」されていなければならないということである。自らの「欠如」を認め自分には他者が必要であることを知らなければならないのである。本章で述べた2つの恋愛はともに自らのナルシシズムの傷つきを回避し、ナルシシズム的快楽の追求を妨げない、あるいは助長するものではないだろうか。

 (注2)別の言い方をすれば「快と不快のバランスシートの快のプラスをどれだけ増やせるかに中心的関心がある」である。

 (注3)そんな彼らの中でも将来的に結婚したいと考えている人は多い。しかし「はじめに」で述べたように、恋愛する能力・愛する能力は学習によって身につけるものである。結婚相手をいきなり探そうとしたり、異性と持続的な関係を築こうとしても苦労することは目に見えており、結果として大きな回り道をすることになるかもしれない。そのようなリスクについても考えておくべきであろう。

10月26日 小川ひとみさんと宮崎貴史さんのおはなしをきいて

こんにちは。3年生の寺井です。10月26日にガーナで青年海外協力隊の活動をしていた小川ひとみさんとIT関連の仕事をなさっている宮崎貴史さんのお話を聞きました。最初の1時間でガーナという国について、残りの1時間でガーナで小川さんが実際にした活動についてのお話を聞きました。私はガーナという国について地理的な事しか知らず、ガーナの衣食住やガーナ特有の文化についてクイズを交えながら楽しく学ぶことができました。また、JICAの活動として学校でICTの教鞭をとっていた小川さん。パソコンに必要な電気もなければ、パソコンもほとんどない中で日本と同じようにパソコンの授業ができるはずもありません。そんな中、小川さんは様々な工夫を施し、授業をなさっていたそうです。正直私は今までJICAの活動について詳しくは知らず、発展途上国に行って生活のお手伝いをするという抽象的なイメージしか持っていませんでした。小川さんのように教育もしていると知り、驚きました。私が一番感心したのは、小川さんの授業づくりです。ガーナの人々をやる気にさせるような教材作り。人々を動かす、やる気にさせるのはとても大変です。私も、学生会館の自治会や、サークルの執行部をやっている若しくはやっていたので、その大変さはよく知っています。どうやったらみんなが動いてくれるのか毎日のように考えていました。いまだにその答えは分かりません。小川さんは同じ困難を、ガーナという異国の地で乗り越えたのですから、とてもすごいと思いました。
この講演会のお話を頂いたとき、正直法律を学んでいる私にJICAの活動はあまり関係がないだろうなとおもっていました。しかしいざ参加してみると、小川さんの明るい人柄や講演に魅かれ、楽しんでいる自分がいました。私だけでなく、参加者全員が楽しめたと思います。その証拠に、最後の質問コーナーではたくさんの質問が飛び交いました。ITに興味のある学生や、海外に興味のある学生が多いこの寮。参加者にもそのような子がたくさんいました。その子たちからの様々な質問に小川さんも宮崎さんも丁寧に答えてくださいました。最初は関係ないだろうと思っていた私も、自分の中で法律と絡めて講演会を聞き、質問させて頂きました。自分が予想していた以上に自分にとって有意義な講演会になりました。
最後に私たちのためにわざわざ東京からお越しいただいた小川さん、宮崎さんに感謝したいと思います。楽しい講演会をありがとうございました。

講演会の様子

講演会終了後、個別に質問に行く学生

初海外!ウィーンで芸術文化研修~その1~

こんにちは!寮生の下舞です。
9月の中頃に、12日間海外研修にいってきました。その場所はというと…
芸術の都、オーストリアのウィーンです!!
初めての海外で、ウィーンだなんて、と行く前からとても興奮してしまいました(笑)
この海外研修は、大学の今年初めてのプログラムで、現地で文化政策・芸術文化教育・アートマネジメントなどに関する取り組みを行っている文化機関の方と連携して、大学教授の話や他の文化機関の方々の話を聞いたり、美術館・博物館・コンサートホール・アトリエ…などに行って運営側の話を聞いたり、実際にアートの現場に行ってみたり…と芸術文化に関する内容がてんこ盛りのスタディツアーでした。
そんなプログラムの目玉は、ズバリ芸術の都を肌で感じる体験です!
つまり…オペラ座でのバレエ鑑賞に始まり、ガイド付き(もちろん英語)の美術館鑑賞、オペラ鑑賞、オペラのリハに楽友協会でのコンサート、そしてコンチェルトハウスでのウィーンフィルコンサートなどなどです!
それだけでなく、普通のツアーでは行けないところ(ウィーンの端にある、共産主義時代の集合住宅地区や移民が多く暮らしている地区、また王宮の地下など)もいろいろ巡りました。
これらを実質10日間ですべてこなしたので、まるで1か月ウィーンにいたような気分でした!
この研修を通して、感じたこと・考えたことは山ほどありますが、その中からいくつか書こうと思います。
まず、ウィーン(オーストリア)の人々は一人ひとりが自分の文化は素晴らしい、と強く思っているということです。ウィーンは日本に比べて芸術文化に関係する機関がずっとたくさんあり、そこで働く人々はどうやったらより多くの人に(特に若者に)芸術に触れてもらえるか、機会を提供するか常に真剣に考えていました。また、オペラやコンサートを聴きに行ったときの聴衆の歓声には驚きました。全力で拍手する人々の姿やホールの熱気を感じて、芸術そのものだけでなく、そこに携わる人・演奏者・歌手などに対して尊敬の念を抱き、それを態度で表す(ドレスコードなども含め)のが当たり前になっているのだなと思いました。
一方日本(人)は、基本的に自国の文化に対する意識が低いと感じました。これは自分自身が痛感したことです。ウィーンに行って、街中の荘厳な建物や博物館の美術品を観ていると、「日本よりずっと優れている」と思うことが何度かありました。でも、よくよく考えてみると、西洋には西洋の良さが、日本には日本の良さがあり、根底にある考え方が違うため比較し優劣を付けることはできません。また日本にも素晴らしい文化がたくさんあります。しかし、その価値を正しく理解できていないがためにそのようなことを言ってしまいがちなのではないかと思いました。その価値を理解するにはその文化が生まれた背景(歴史)を知る必要があります。つまり、もっと日本のことを知ることが大事だと感じました。
まだまだ整理がついていませんが、この研修で学んだことをいつか活かしていけたらいいなと思っています。

石見神楽なにわ館

大阪日日新聞(8月27日)のぶんか「関西の音と人」に玉田千里さん(大阪大学文学部4年)の『石見神楽なにわ館』が載っていました。
以下原文のままです。

 祭りが佳境に差し掛かった夜中、皆でたき火を囲む。太鼓と笛の音色が静まり返った山々に響き渡り、鬼や神が身を翻すたび、衣装がキラキラと輝く。私にとっての石見神楽は、こんな原風景と共にある。皆が一緒にいる感覚、と言い換えてもよい。
 私は島根県西部の中山間地域、つまりディープな石見地域で育ち、石見神楽をずっと見て育ってきた。石見神楽はこの地方に伝わる神楽だ。神社で行われる神事のほかに地元の夏祭り、ショッピングセンターなど様々な場所で目にすることができ、地元の人々にとっては身近な娯楽として親しまれている。その石見神楽を観られる施設が、何と「大阪にできた」と聞き、私は『石見神楽なにわ館』(大阪メトロ・阪神桜川駅から徒歩5分)を訪れた。
 そこで観た物は、私が知っている石見神楽ではなかった。お囃子のちょっとした揺れ、手足の所作、面を外して舞う時の目付き、微妙な部分の違和感の重なりに混乱し、照明の華やかさ、ストーリーの分かりやすさを強調した演出にもショックを受けた。そこは私の原風景とは無縁だった。
 「ここで神楽を舞う人たちは、どのような思いを持っているのだろうか?」そんな疑問を抱き、私は再び同館を訪ね、一部の演者の方々にインタビューをした。彼らの経歴は、元会社員、小劇場の劇団員、大学生など様々だ。関西圏出身で「これまで石見神楽の存在を知らなかった」という人もいたが、祖父母が島根出身だったり、自分自身が石見地方の出だったりという人もいる。一人一人が様々な思いを抱えながら、神楽と向き合っていることを真剣に話してくれた。
 話を聞く中で浮かび上がって来たのは、土地を離れた芸能の危うさだ。神楽に限らずある土地で受け継がれてきた伝統は、その土地の人たちによって担われるのが普通で、それが生活の一部となっている。そこには「同じ共同体の中で生きている者」であるという共通の認識がある。一方でなにわ館では、この了解を持たない人々が石見神楽を通じてつながっている。自分がより大きなものの一部に属しているという感覚がなければ、神楽の説得力は失われる。大阪に生きる人の舞が醸し出す空気感が、石見の人のものと異なるのは当然だろう。
 印象的だったのは「大阪社中にしかできないものを作りたい」「このなにわ館が有名になったら、島根の人に見てもらいたい」という、演者の方々の言葉だ。「石見」という束縛を離れた石見神楽は、エンターテインメントという側面が強まり、より演劇的で自由な表現ができるようになる。石見にはほとんどいない、女性の舞い手がいるという点にも自由さが表れている。そして舞い手の方々の、石見神楽を石見の物として尊重しつつ「大阪にいる自分たちだけの表現を模索していきたい」という思いが伝わり、私は故郷を愛する人間としての嬉しさと、石見神楽の変化の可能性を感じた。
 大阪の地の「石見神楽」は、誰かの原風景となるのだろうか?変わっていく石見神楽の変わらないところは何だろうか?変わっていく石見神楽の変わらないところは何だろうか?
 石見で生まれ育った大学生の疑問と想像はまだまだ尽きない。

サイクリング部(長野~富士山)

1回生の佐藤萌衣です。
8/18~26まで、サイクリング部の活動で長野県や富士山に行ってきました。長野県には23日までいて、国道最高地点や美ケ原高原、善光寺、SUWAガラス館などに行きました。国道最高地点や美ケ原高原は標高2000m超えの場所だし、天候が悪く雨が降ったり霧に覆われたりして、たどり着くまでかなりしんどかったですが、登りきった後の景色はとても綺麗でした。自分の足で雲の上まで行くというのはなかなか経験できることではないので、非常に良い経験だったなあと思います。善光寺には初めて行って、お戒壇巡りをしました。予想以上に暗い空間だったので怖かったです。SUWAガラス館ではとてもきれいなガラスの作品を見ることができ、キラキラしたガラスたちのおかげで疲れが軽減されました。ここではとんぼ玉を作ることができ、楽しかったです!また、美味しいものをたくさん食べました。長野県名産のももやリンゴジュース、そばなどはもちろん、班の皆さんと食べた、自分たちで作ったハヤシライスや麻婆豆腐、うどん、パスタもとても美味しかったです。

24、25日は、本来長野県から富士山まで電車で行くつもりだったのですが、2日間かけて自分で自転車で行こうと誘っていただき、長野から山梨を通って静岡県富士市まで自転車をこぎました。久しぶりに晴れて、景色も綺麗だったので、とても爽快でした!休憩をはさみ、おいしいとんかつやソフトクリーム、ぶどうをたべながらみんなと楽しく自転車をこぐことができたので、この自走に参加して本当に良かったなあと感じました。
26日は富士山に登りました。天候の関係で5合目まではバスで行き、そこから歩いて登りました。山に登ったことはほとんどなかったので、高山病を心配していましたが、それに関しては全然大丈夫でした。ただ、当たり前ですが傾斜が急で、しかもわたしはごく普通のスニーカーで登ってしまったので、登頂するころにはよろよろでした笑。頂上からの眺めは最高で、達成感が大きかったです。ここでかなり大変だったのは下山です。登るときはそこまで危なくなかったのですが、下るときは岩や石で滑りやすいので、集中力が欠かせませんでした。この日は富士山で落石での死亡事故もあったのですが、無事に下れて本当によかったです。
この9日間、ハードでしたがとても貴重で楽しく、成長できる経験をすることができました。これからも色んな場所へ行って、色んな経験をするのが楽しみです!

国道最高地点までの景色

美ケ原高原

SUWAガラス館

富士山登頂

大学選手権の読手を務めて・・・

こんにちは。3回生の寺井です。8月10日11日に競技かるたの大学選手権大会が行われました。10日に団体戦11日に個人戦が行われ、私は両日とも読手として参加しました。しかも、私は団体戦、個人戦両方の決勝戦の読手を務めました。決勝戦の会場は近江勧学館浦安の間です。お正月に競技かるた最高峰の戦い名人位・クイーン位決定戦が行われる部屋です。私も何度か浦安の間で読ませていただきましたが、いつもの浦安の間とは違っていました。団体戦の決勝は慶應義塾大学と法政大学、3位決定戦が九州大学と立命館大学の戦いでした。最後の試合ともなると緊張感が違いました。私の一声で選手が札を取る。そのたびに試合が動く。責任は重大です。高校の時に総文祭で読手を務めましたが、その時と同じくらい緊張しました。
3対3の団体戦で両チームとも1勝ずつ、あと1勝で優勝が決まるという場面。両方が残り1枚ずつになり、あと1枚で勝負が決まってしまいます。これを「運命戦」といいます。どちらが読まれるかわからない、読まれた札をどちらが取るがわからない。まさに「運命」です。その「運命」は読手である私にかかっている。あの場で一番緊張したのは私だったとも思います。たくさんの観客が客席で見守る中、私は最後の1首の上の句を読みました。決まり時まで読み終えた瞬間、会場中が歓喜とため息に包まれました。勝利した慶應の歓喜、負けてしまった法政のため息。読誦席にいた私はその両方が感じられ、まさに青春だと思いました。また、失敗してはいけないというプレッシャーから解放された安心感を得ました。さまざまな感情が入り混じる近江勧学館浦安の間で私は最後の下の句を読み終えました。私の任務が終了した瞬間でした。
大会運営においてどの役目も欠かすことができない大事なものです。しかし、かるたの大会で1番欠かすことのできないものそれが読手です。今回その重大な役目を終え、私はたくさんのものを得ました。読誦席でしか感じることのできない感情も湧き起ってきました。今年の大学選手権は終わってしまいましたが、また来年、再び読手としてこの大会に参加出来たらいいなと思いました。

海士町研修2

僕がこの研修で感じた事は、島のデメリットを、見方を変えて利用しようとする取り組みが行われているということです。島には人口減少、超少子高齢化、超財政難というデメリットがあり、島は社会の縮図です。しかしここで、島には日本をつくるヒントがあると考えるのが海士町です。島前教育魅力化プロジェクトにしても学校存続の危機を地方創生の好機と捉えていました。また、島には協働という意識が強く存在することを実感しました。例えば、島のお祭りや地区活動の草むしりでは、役場の人と地域の人が混じって行っておられました。本土ではあまり目にすることのない光景です。全員ではないと思いますが、Iターンとして入って来られた人も島の人と打ち解けられる環境があるのではないでしょうか。これは離島ならではの閉鎖的な環境による人間関係が要因であると思いますが、本気で何かをしようとする人には行政も地元の人も本気で応援してくれる環境がありました。
最後に
今回の研修で僕は多くの発見をしましたが、一方でそれぞれの体験が何のために意図されたものかというところにあまり意識が向かなかったので、もっと深い発見ができたのではないかと感じました。また、この研修で得たものを今後何に生かすのかはっきりしていなかったので、実りある研修にするためにも、そこはしっかり考えないといけないという課題も見えました。お世話になった方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。

海士町研修1

こんにちは。309号室の奥田です。僕は先日、5日間海士町を訪問させていただきました。僕が海士町を訪問した理由は”地方創生の成功例”などとよく目にする海士町に興味を持ち、実際に行って現地の人のお話を聞いてみたかったからです。ここから、1日ずつ僕が体験したことをまとめます。
1日目
海士町取り組み視察 海士町の取り組みの背景、島としての方針などの説明を聞きました。
島内見学 実際に取り組みが行われている現場を視察しました。
2日目
サザエ漁 伝統的なかなぎ漁を体験しました。思っていたより大変でした。
魅力化PJ視察 島前高校、学習センターについての説明を聞きました。
崎みかん農作業 海士町特産の崎みかん生産を再生させようというプロジェクトの説明を聞き、実際に体験させていただきました。
3日目
崎みかん農作業 前日に引き続き、みかんの摘果を行いました。
清掃活動 港にあるキンニャモニャセンターという建物で清掃活動を行いました。
4日目
地区活動 日須賀という地区でその地区の方々と草むしりをしました。
さくらの家 ふくぎ茶という海士町特産のお茶の検品作業を体験させていただきました。
5日目
報告会 これまでの視察、体験をまとめ、お世話になった方々の前で報告しました。

研究室見学について

こんにちは。
322号室の上中ともみです。
先日、初めて大学の研究室に見学に行きました!
まず研究室を案内していただき、院生の方とお話をして、研究室の先生とお話をしました。
そこでたくさんのことを学んだので、そのことを箇条書きで書き連ねていこうと思います。
研究室見学
・大まかに二つのことをやっている。一つ目はタンパク質の結晶、二つ目は高分子化合物。
・一つ目について。結晶化の方法を説明する。目的のタンパク質を大腸菌に入れて、大腸菌を増殖させる。その大腸菌を超音波で殺して目的のタンパク質だけ残す。クロマトグラフィーなどを用いて不純物を取り除き、結晶化して、X線をあててラウエ斑点的なのから目的のタンパク質がどのような構造をしているか見る。濃度や金属とかの要素を変えて、もっとも結晶化に適した状態を探る。
・二つ目について。プラスチックの表面のCOOH其は反応性が高いから、プラスチックは他の生物(フジツボとか)がついてしまったり、別のものと反応したりしてしまう。このCOOH其を別の側鎖に変えることで、より良いプラスチックを作れる。また、生分解タンパク質のCOOH其を変えることで、カテーテルや医療用の糸などに利用できる。
先輩のお話
・TOEICとGPAはとっておいたほうがいい。
・TOEICの単語帳とか読んで、今の英語力をキープしたほうがいい。
・勉強、バイト、部活、全部楽しむ。
・学部生の間に海外旅行とかしといたほうがいい。
・別の学部の院にいくこともできなくはない。
先生のお話
・第三世代抗がん剤について
・抗体にビオチンと強い結合を持つ要素を加える。抗体を先に体内に入れて、抗体が何時間かかけてがん細胞にくっつく。そこにビオチンを入れると数十分で抗体とくっつく。ビオチンに放射性同位体などのがん細胞を破壊する働きを持つものをくっつけておくことで、抗がん剤の働きを持つ。
・体内にはビタミンがあり、ビタミンとビオチンは似ているため。ビオチンが抗体と結合する前にビタミンと抗体が結合してしまう。それを防ぐために、抗体の側鎖を色々変える。それにより、人工のビオチンのみ抗体に結合するようにする。
・タンパク質を体内に入れるとき、体内にあるタンパク質と同じような配列を持つものでないと体が拒絶してしまう。だから、新しく作ったタンパク質は、ヒトのタンパク質情報をもつコンピュータに入れて、体が受け付けるタンパク質の配列に変える。よって、分子細胞情報学は重要な役割を持つ。


なんだかレポートみたいな感じになってしまいました笑
それくらい研究内容が面白そうで印象に残っています。私はまだ専門的な勉強はしていないから正しく理解できていないと思うので、何年後かにこのブログを見返して間違いを指摘できように、ちゃんと勉強しようと思いました。

ミャンマー旅行4

上の写真は街の通りでフルーツやお菓子を売っている様子、下の写真はミャンマーがかつてイギリス領であった時代に築かれた建物です。
今回ミャンマー に行ってみて、ミャンマーの人々の生きようとする力や、勢い、街の活気に圧倒されました。日本にいたら気づかない、日本の便利さ、清潔さも感じました。また、ミャンマー の人々の親切さや、穏やかさに驚きました。チップ目当てでなく道案内をしてくれたり、目が合ったり話したりすると必ず微笑んでくれました。
大学に入ってから約4ヶ月間、ビルマ語、ミャンマーの文化や歴史についてを少しずつ学んできて、実際に今回ミャンマー に行ってみたことで、学んだことを確認できたし、行って見なければ分からない新たなことを知ることも出来ました。今回は英語を使うことが多かったのですが、これからもっとビルマ語を上達させて、現地の人とビルマ語で
会話できるようになりたいです。文化や歴史のこともより深く学び、次は地方にも行ってみたいです。

この経験から、大学での留学や、将来のことも考えていきたいです。
今回のこのような経験をさせてくれた両親に感謝しています。

ミャンマー旅行3

上から順に、フルーツ、カレー、モヒンガーです。ミャンマーのフルーツは本当に新鮮でおいしく、見たことのないフルーツもたくさんありました。フルーツ大好きな私にとっては楽園です。
ミャンマーのカレーは日本のカレーと異なり、ご飯に会うおかずという感じでした。
モヒンガーはミャンマーの伝統料理で、魚のスープに米粉の麺が入っています。香辛料が使われていますが、とても食べやすく、私は気に入っています。

ミャンマー旅行2

ヤンゴンで最も大きなマーケットであるボージョーアウンサンマーケットの周辺の写真です。多くの人々で賑わっています。このマーケットでは品物に値札がついていないことが多く、日本人など外国人に対してはとても高く売ってくることが多いです。ここで私は今学んでいるビルマ語を少し使いながら値引き交渉に挑戦しました。最初は全く応じてくれませんでしたが、根気強く交渉すると応じてくれました。また、この写真にはタクシーが写っていますが、このようなタクシーなどヤンゴンで使われている車は日本車がほとんどです。タクシーには割と安く乗ることができるので、今回の旅行ではよく利用しました。これも交渉を重ねて適当な値段で乗ることができました。このミャンマー旅行で私の値引き交渉スキルがかなり高まった気がします。

ミャンマー旅行

321号室の佐藤萌衣です。
今回わたしはミャンマー へ行ってきたので、そこで経験したことを紹介します。
上からミャンマー、ヤンゴンにあるシュエタゴンパゴダ、チャウタッジーパゴダ、Ngar Hyatt Gyiパゴダです。パゴダ(仏塔)は至るところにありミャンマーの人々に深く信仰されています。外国人観光客も多いのですが、僧やミャンマーの人々が多く集い、熱心に何かを唱えたり祈ったりしています。ミャンマーの人々にとっての仏教という存在の大きさを感じることができました。

古民家改修での新体験!!

こんにちは!最近ホームページを2つ更新しました寮生の下舞です。


今回は、2回生になって新しく入ったサークルでの活動について書きたいと思います。
そのサークルは、主に観音寺という集落での活動や、夢前での古民家改修などを自分たちで考えながら進めているサークルです。(正直説明するのが難しいです…)
こ、今回は、古民家改修ということで7月の土日に泊まりがけで行ってきました!


今行っているのは、キッチンのあたりの床下を全部あけて一から大工さんのように造っていく作業です。行ってみて本格的でとてもびっくりしました!
シロアリ予防の対策やビス打ち、ベニヤの釘の打ち付けに板張り…と大工さんになった気分♪
上回生に教えてもらいながら、他の新入生とともに汗まみれで作業に取り組みました!とにかく蒸し暑かった…
それもそのはず、ちょうど梅雨真っ只中で、湿度計が狂わんばかりのムシムシ感。そのせいで、いろんな所が緑色のフワフワしたもので覆われていました…


いろいろと寛容にならないとやっていけない作業でしたが、協力し合いながら作業が進んでいったり、みんなでごはんを作って食べたり、寝袋で寝たり…と普段できない経験を一気にできて、とても楽しく充実した2日間でした✨
クタクタになりましたが、それ以上にとても楽しかったので大満足でした!

また参加したいと思います♪


以上、古民家改修の話でした~!

日本語とモンゴル語について

こんにちは。三回生の福場です。今回は、いま僕が学んでいるモンゴル語と日本語の関係について書こうと思います。
「アルタイ系諸言語」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか?モンゴル語はアルタイ系諸言語の一つであり、日本語もしばしばアルタイ系の言語だと言われることがあります。
このアルタイ系諸言語は何かと言うと、いくつかの共通した特徴を所持しており、同一の起源を共有するのではないかと長年議論が続いている三つの言語群を指します。すなわち、モンゴル高原周辺のモンゴル語族(モンゴル語など)、北方のツングース語族(満州語など)、西方のチュルク諸語(トルコ語など)です。その共通する特徴とは、①語順(SOV型)、②流音(r、lなどの子音)が語頭に立つ単語が少ない、③母音調和を持つ、④膠着語、などの点です。最後の膠着語とは、主格や目的格などの文法的機能を示す機能語(日本語で言う「が」、「を」など)を、単語の後ろに接続することで文法的機能を示すタイプの言語です(「彼」+「が」/「を」→「彼が」/「彼を」)。英語は語順によって文法的機能を示すのでこれに当たりません。③の説明は長くなるので割愛します。
日本語も、③を除いてすべての特徴を持ちます。これが「アルタイ系」と言われる所以です。では、日本語も同じ系統関係にあるのでしょうか。
それぞれの言語群の中では系統関係がすでに証明されています(=「語族」)。しかし、全体ではまだ証明されておらず、反論も多く提示されており議論が続けられています(そのため「語族」ではなく「諸語」と呼ばれます)。
そもそも、何を持って同系だと証明するのでしょうか?もっとも根本的な着目点は「音韻対応」です。それぞれの言語で共通する語彙をピックアップして比較し、それぞれの子音に規則的な対応が見られるとき、「音韻対応が存在する」と言います。音韻対応が存在されれば、同系であることはかなり確からしいとされるのです。この三つの語族の間には、お互いに音韻対応の関係を持つ語彙が10~20%存在しますが、残念ながらこれでは証明するのに十分とは言えません。
翻って日本語とモンゴル語ではどうでしょう。さらに残念なことに、ほとんど存在しません。また、日本語と文法がよく似ていることで有名な朝鮮語ではどうでしょうか。これも同じく、お互いに音韻対応の関係を持つ語彙はほぼ存在しません。地理的に近く、文法がそっくりであっても、実は何の関係もないのです(正確には系統関係が「証明されていない」だけで、無関係であると言い切るのは難しいのですが)。
結論としては、日本語とモンゴル語の間には何の関係もないだろう、と言うことになります。しかし、このふたつに限らず、トルコ語から満州語、朝鮮語にいたるまで、文法的な共通点は多く、なぜ別起源の言語が似た形式を持つに至ったのかなど、切り口は多くあります。これからも注意深く観察して自分の洞察を深めたいと思います。

就職活動の苦労

どうもこんにちは。現在、自治会副会長を務めております。二回生の柳楽と言います。最近暑いですね。どうにも都会の夏というのは本当に暑くなったり寒くなったりするので疲れてしまいます。皆さまも体調管理には気をつけて。夜寒いですからね。
それはともかくとして、今回就職活動を通して感じたことを話そうと思います。

まず一つ目として、「持ってる資格の数とかどうでもいいからまず喋ろう」ということでした。
これは面接試験での話なのですが、「自己PR」と言えば、面接で聞かれることのナンバーワンの質問ですよね。コレを一番初めに受けにいった企業で喋ることができなかったということで、この会社を受けに行ったクラスメートのうち、私だけがお祈りメールをいただいたという結果で落ち着きました(笑)
このことから学んで、これからも生かしていきたいことが、「とりあえず喋る」ということでした。私の父親も「喋れない奴はクソだ」と耳にタコができるくらい言っていましたが、いやはやその通りだと思います。クソは言い過ぎですけどね。しかし、喋らなければやはり何も伝わらないし、エスパーでもない限り喋らないでいいなんてことはありません。
ともかくこれらの経験を通して、いかに自分の考えを相手に伝えられるか、ということの大切さ、難しさを感じました。

結局十数社くらい受けて、本命の企業一社だけに内定したというまぁ及第点位な就職活動の結果でしたが、自分の中でとてもいい経験になったと思います。島根ではこうはいかないんじゃないかと。いや、わかりませんが。
しかしそれにしても、学生会館での経験は本当に面接でもかなり役に立ったので、このような環境に身を置けるというのはありがたいことだなと思いました。皆さんの就活の際の話のタネになるような行事を作っていけるように、副会長として頑張っていきたいところですが、なかなか難しいもので皆さんと話したりしているうちにみんなと何かできるようなことを思い付けば、提案してみたいと思います。

淡路島でサイクリング

一回生の佐藤です。
この前の土曜日、淡路島へ行ってサイクリングをしました。雨も降ることがなく良いコンディションの中で海や自然の景色が綺麗で、さわやかな海風が非常に気持ちがよかったです。本当は一周したかったのですが、私の班は70kmほどしかこぐことができませんでした。これから経験を積んでもっと長い距離をこげるようになりたいなあと思っています!

5月26日に「先輩から元気をもらう会」を開催しました。

307号室の吉岡です。

526日に「先輩から元気をもらう会」という会において、株式会社創晶の代表取締役社長の安達宏昭さんをお招きし、ご講演いただきました。その感想を書かせていただきます。

こちらの準備不足のため、拙い文章になってしまうことをあらかじめお詫びしておきます。

安達さんのご講演の中では、タンパク質の結晶化といった科学の話、それをどのように利用したか等のビジネスの話、自身の経験の話など、様々なお話をいただきました。それらのお話の中で、全体的に共通していた点が二点あると考えました。

一点目は、悪いと思われていることにも良いことはあり、良いと思われていることにも悪いことはあるという逆説です。これは、物事の評価を考えるときに、多面的に考えると常にトレードオフが伴っているということだと思います。例えば、「大企業は組織が大きく、ベンチャー企業は組織が小さい、ゆえに大企業は安定している」という話をあげましょう。これは確かに正しいのですが、「安定性」という一面的な評価に留まっています。他の評価点、例えば「仕事の自由度」という評価点からみてみると、大企業よりも組織の小さいベンチャー企業の方がより自分のやりたいように仕事ができるでしょう。当然、「組織が大きい」ことと「組織が小さい」こととは同時に実現できませんから、「組織が大きいこと」による「安定感」と「組織が小さいこと」による「仕事の自由度」は、トレードオフの関係にあると言えるでしょう。それだけなら誰にでもわかることなのですが、世間ではある一面的な評価が特に重要視され、それが固定観念を形成しているということは多くあります。そうした評価、固定観念にとらわれず、多面的な評価をすることが大事だと思いました。安達さんは「自分で決定することも大事」というようにも仰っていましたが、このことと同義のように思いました。

二点目は、今やれることをやるという積極的な態度です。この点に関しては、プレゼンテーションや質疑応答の時間を通じて何度も強調されていた印象ですが、特に私が質問したときのご返答から強く感じました。プレゼンテーションで「日本をベンチャー起業しやすい国にしたい」と仰っていたので、私は「日本をベンチャー起業しやすい国にするための具体的なプランはありますか?」と質問させていただきました。この時私は、「きっとベンチャー起業を支援する組織の設立のような構想が頭の中にあるだろうな」と思っていたので、返ってきたご返答にはっとさせられました。それは、「創晶を維持すること」と「現行のベンチャー起業支援プロジェクトに参加する人を一人でも多く増やすこと」というものでした。そうした、今できること、小さな日々の努力の積み重ねが、ゆくゆくは大きな結果をもたらすのだと思いました。

その他にも色々学ぶところはありましたが、私は特にこの二点に関して特に強く思うところがあったので、この二点をもって感想としようと思います。

安達宏昭さん、お忙しい中わざわざ島根県育英会大阪学生会館でご講演いただき、ありがとうございました。

最近の出来事

こんにちわ。今年度副会長やらせてもらっている二回生の木透です。つい最近友達3人と神戸にある「三井アウトレットパークマリンピア神戸」にいってきました。寮からJRの最寄の千里丘駅から16駅あったのでかなり遠かったです。ですが、このアウトレットは海に面しておりとても眺めもよくそして大きかったです。いろいろな店舗があり品揃えもよかったです。僕はNIKEが好きなんでNIKEに入りTシャツ2枚とパ-カーを買いました3点で5千円でした。めちゃめちゃ安かったです。色々買い物したあとに最近はやりのタピオカを飲みました。「THE ALLEY」というお店でした。味は抹茶の黒糖のタピオカでした。最初はとても美味しかったんですけどすぐお腹いっぱいになりました。
そのあと神戸を歩き周りました。神戸でも色々な店を見て回りました。
皆さんもぜひ行ってみてください。おすすめです!

大阪のつけ麺恐るべし!

こんにちは。今年度会長を務めさせていただいている坂根です。皆さんはこのGWをどのように過ごしていましたか。私は、家族が大阪に遊びに来たので、今までに大阪周辺で食べた中で印象的だったつけ麺屋に案内しました。それが「時屋」です。ご存じでしょうか。人気店で、JR新大阪駅から歩いて数分の場所にあります。ここでは「豚つけ麺(濃厚豚骨魚介)」「鶏つけ麺(上湯鶏醤油)」「辛つけ麺(上湯鶏醤油)」が食べられます。今回私は豚つけ麺をいただきました。実は前回こちらにおじゃました時にも豚つけ麺を食べたんですが。こってりした味ですが、後味がすっきりしていてこってり系が苦手な人でも食べやすいです。また、つけ麺を食べた後にだしごはんが出されます。つけ麺のだしをだしごはんにかけていただきます。つけ麺の味にあっただしごはんが出されるので、注文したつけ麺によって種類が異なります。ですので最後の最後まで楽しめますし、たくさん食べる人もおなかいっぱいになることでしょう。家族も非常に喜んでくれました!

 もしまだ訪れたことのない人はぜひ一度行ってみてください!つけ麺の常識が覆ること間違いなしです!

好きな武将はバジオウです!

皆さんGW楽しんでいますかー?元会長の古田です(笑)
久しぶりのブログ更新です!
今日は私の大好きな漫画であり、自身のバイブルになっている『キングダム』について少し話したいと思います。
キングダムは、中国の春秋戦国時代を舞台とし、秦が中華統一していくストーリーを描いたものです。後に秦の始皇帝となる国王『嬴政(えいせい)』と下僕の身から大将軍を目指す『信』この二人が中心としつつ、国王、武将、軍師など様々な登場人物が敵を含めて魅力的に描かれています。

私がこの漫画をバイブルとしている理由として、キングダムに登場している人物たちの《言葉》には、今後社会に出て行く学生には教訓となるものがたくさんあります!また、仕事をして行く上で社会の集団に入っていきます。その集団の中でリーダーとしてやっていく、指揮していくのに必要なことをキングダムから学ぶことが出来ます!
私自身、学べる漫画に初めて出会いました。ぜひ読んで見てください!また、それに加えて関連した書物が2冊出版しているのでこれも見てもらえるとより深く理解出来ると思います!


さて、キングダムは漫画、アニメ化ときて4/19~映画が絶賛公開中です!
私は早速見に行ったのですが、感想として、、、
①漫画の世界観を壊さず、かつスケールが大きかった!
②何といっても、戦闘シーンが興奮します!
③セリフ1つ1つの言葉が心に刺さります
④キャストが全てハマり役です!
などなど語ることがたくさんあります笑
もう一度漫画を読み直そうと思いました。
ぜひGW中映画KINGDOM見に行ってみてください!
夢中になること間違いなしです!

映画公式サイト
https://kingdom-the-movie.jp/sp/index.html

映画KINGDOM

週刊ヤングジャンプで連載です!

キングダムに出てくる言葉から教訓となることを学べます

リーダーになるには何が必要かキングダムから学べる書籍です!

2019年新歓~Welcome to 大阪学生会館~

こんにちは。3回生の寺井萌乃です。
4月13日に10人の新寮生を迎え新歓コンパを行いました。
今年もフレッシュな新寮生!!ゲームにお話に楽しいものとなりました!自分の恋愛観について語る人、桜ソングを歌う人、いたるところで楽しそうな声が聞こえてきました!
この時期になると、私が入寮してきた2年前を思い出します。島根から家族のいない大都会、大阪に引っ越し、不安な時期でした。そんな私を、寮の仲間たちや、館長夫妻が支えてくださり、今日までやってくることができました。家族がいない大阪でも、帰宅すれば「おかえりなさい」といってもらえる幸せや、自分の話を聞いて真剣に考えてくれる仲間たちの存在を日々かみしめています。寮の仲間が第2の家族のようです。今、この内容をブログに書いていてもこの幸せを思い出し、心が温かくなってきました。
新寮生も今はとても不安な時期だと思います。そのすべてを拭い去ることは難しいかもしれませんが、ちょっとでも不安が安心になるお手伝いをできたらいいなと考えています。
今年1年、新寮生を加えたメンバーで張り切ってやっていくので、よろしくお願いします!!

ミャンマー旅行4

上の写真は街の通りでフルーツやお菓子を売っている様子、下の写真はミャンマー がかつてイギリス領だった時代に築かれた建物です。
今回ミャンマー に行ってみて、ミャンマー 人々の生きようとする力や、勢い、街の活気に圧倒されました。日本にいたら気づかない、日本の便利さ、清潔さも感じました。また、ミャンマー の人々の親切さや、穏やかさに驚きました。チップ目当てでなく道案内をしてくれたり、目が合ったり話したりすると必ず微笑んでくれました。
大学に入ってから約4ヶ月間、ビルマ語、ミャンマーの文化や歴史についてを少しずつ学んできて、実際に今回ミャンマー に行ってみたことで、学んだことを確認できたし、行って見なければ分からない新たなことを知ることも出来ました。今回は英語を使うことが多かったのですが、これからもっとビルマ語を上達させて、現地の人とビルマ語で会話できるようになりたいです。文化や歴史のこともより深く学び、次は地方にも行ってみたいです。

この経験から、大学での留学や、将来のことも考えていきたいです。
今回のこのような経験をさせてくれた両親に感謝しています。